ASEAN主要国の産業政策と企業によるサプライチェーン対応日タイ連携による競争力の再構築
タイ(3)
2025年12月10日
本シリーズでは、タイの自動車やエレクトロニクス産業を中心に、貿易投資構造の変化を概観してきた。本稿は、タイの産業振興策や非日系企業の台頭によるビジネス環境の変化を踏まえ、今後の日タイ企業連携、タイの産業高度化とサプライチェーンの強靭(きょうじん)化に向けた示唆を提供する。
投資環境の変化と国家の方向性
製造業の集積や整備されたインフラ、政府の投資支援策を背景に、タイへの外国直接投資(FDI)は継続して増加している。タイは東南アジア最大の日系製造業の集積地だが、人件費の上昇や高度人材の不足、非日系企業との競争激化などで、投資環境は変化しつつある。実際、日本の製造業の中期的な有望展開国として、1990~2000年代に平均して第2~3位にあったタイは、2010年代以降、第4~6位へと後退した。代わって、ベトナムやインドネシアが台頭している(注1)。
こうした中、タイは国家戦略として「タイランド4.0」構想(2015年、注2)や「BCG経済モデル」(2021年、注3)を導入し、産業高度化と持続可能な成長を軸に、さらなる投資誘致を進めている。一方、近年は中国や台湾の企業進出も加速しており、現地の競争環境やサプライチェーン構造にも変化が生じつつある。次節以降では、これらの変化とそれに伴う課題と対応を考察する。
技術・知的活動のハブとしてのタイへ
米国の第1次トランプ政権(2017~2021年)の発足以降、中国や台湾に拠点を置く企業を中心に、地政学リスクを回避するため、国境を越えたサプライチェーン再編が進展している。特に中国から直接輸出しづらい北米向け輸出を念頭に置く企業が多い。タイへのFDI認可額の国・地域別シェアを見ると、台湾からの投資は2014年の0.7%から2024年の7.1%まで拡大した。中国からも2019年以降に急増し、2023年には初めて金額とシェアで日本を上回った(本特集「タイ(1)変化する貿易投資構造と、求められる製造業の高度化」参照)。これらを背景に2018年以降、タイの対米輸出は大きく伸長している。また、タイを含むASEAN各国も、世界的なサプライチェーン再編を受け、デジタルや半導体などのハイテク産業の誘致を強化する戦略を打ち出している。
しかし、こうした潮流はタイに新たな問いを突きつけている。第1に、米中対立が貿易戦争から技術覇権を巡る争いへと変化する中、両国への過度な経済依存をどう抑えるかだ。第2に、近隣国とのサプライチェーン誘致競争が激化する中で、タイの生産・輸出拠点としての競争力をどう再定義するかだ。特に後者は、タイが継続して投資先として選ばれるためにも重要な問題だ。この点、先述した人件費上昇などの投資環境の変化を踏まえると、従来型の輸出拠点としての競争力だけでは不十分だ。今後は、品質・技術力の向上、開発拠点や地域統括機能の強化、さらには、国際企業の知的活動を支えるハブとしての役割が求められるといえよう。
サプライチェーン強靭化で競合にも対応
在タイ日系企業は地政学リスクに対応するため、調達先の多元化や複数購買、在庫管理の強化など、サプライチェーン途絶リスクへの対策を講じている。さらに、部品仕様の共通化によって効率的な分散生産を模索する動きもみられるが、ASEAN域内では依然として非関税障壁や、政策のばらつきが課題として残っている(注4)。
一方、デジタル技術を活用したサプライチェーンの可視化・効率化については、検討されているものの、日系企業による本格的な実装はこれからだ。現場ではエクセルなどのマニュアル管理が引き続き主流となっている。競争力あるサプライチェーンを構築するためには、こうしたデジタル投資に加え、サステナビリティー対応や自社にとって優位性のある技術や市場への注力など、統合的な戦略設計が求められる。
こうした多面的な強化策は台頭する競合との差別化にもつながる。例えば、自動車産業では、日系企業が持つハイブリッド車(HEV)技術がエンジン効率などで強みがあり、バッテリー式電気自動車(BEV)やプラグインハイブリッド車(PHEV)への注力が見込まれる中国勢との差別化に有効とされる。
また、日系企業A社(金属部品)はタイ政府のグリーン産業認証(注5)を取得し、環境対応力を訴求することで、調達先選定で優位性を確保している。
さらに、B社(EV向け金属部品)は、提案型製造モデルや欧米市場への展開を通じて差別化を図り、通商環境の変化を新たな事業機会と捉えて、設備投資や事業多角化を積極的に進めている(注6)。
産業の維持と高度化に向けた人材育成
地政学変化という外的リスクに加え、タイが抱える長期的な課題は、人口減少による労働力と消費市場の縮小だ。世界銀行によると、タイの生産年齢人口(15-64歳)は2017年に5,043万人でピークを迎え、その後は減少し続けている。ASEAN全体の平均に比べて約30年早く、タイは総人口が減少に転じる見通しで(2024年5月16日付地域・分析レポート参照)、人口ボーナス期が終了しつつある。労働力投入による成長には限界が来ているといえよう。
この影響はサプライチェーンにも顕在化している。バンコク日本人商工会議所(JCC)の調査(2024年度下期)では、日系企業が抱える経営課題の上位には、「総人件費の上昇」「エンジニアの不足」「事務系マネジャーの不足」が並ぶ。労働力の量的不足よりも、賃金上昇による採用難や高度人材の不足が深刻だ。対応策として自動化に取り組む企業もあるが、普及は限定的で、その最大の障壁は、自動化技術を扱える専門人材の確保が難しいことだという(注7)。
産業高度化に向けても、同様の課題がある。タイはASEANの電気電子産業のハブとなるべく、半導体産業の誘致を強化している。自動車産業の段階的なEVシフトを目指す上でも、タイにとって半導体の重要性は高まりつつあるが、不可欠なのはやはり高度人材だ。タイプリント基板協会(THPCA)は、同産業へのFDI誘致を確保するには、今後1~2年で8万人以上の関連人材の育成が必要だと指摘する(2025年3月11日付地域・分析レポート参照)。
こうした状況は、タイのサプライチェーンの維持と高度化で「人材」が最大のカギであることをあらためて示している。技能人材の育成やリスキリング支援、研究開発機能の拡充などを通じて、技術導入と人材戦略を両輪で推進する体制の構築が急務だ。
日タイ連携、技術と人材、ビジネスモデルの融合
既述のとおり、タイは「産業高度化」と「持続可能性」を柱とする国家戦略を掲げており、その実現に向けた中核要素として、イノベーションの導入と定着を位置付けている。この点で、日本企業は既に高度な製造技術と運用ノウハウを有しており、戦略達成に向けた重要な協力主体となり得る。
具体的には、日系企業が長年にわたって蓄積してきた生産現場での効率化や省エネルギー技術、品質管理手法は、タイが推進するカーボンニュートラル政策と高い親和性を持ち、実装可能性も十分に見込まれる。また、フードサプライチェーンの高付加価値化や産業人材の育成支援でも、日本企業の知見はタイの産業構造転換に資するもので、現地の期待も高まっている。
もっとも、イノベーションは技術にとどまらない。マーケティング手法の刷新や人材の現地化(ローカリゼーション)など、ビジネスモデルそのものの革新が日本企業に求められており、タイの企業と社会が抱える課題や、ニーズに即した対応が不可欠だ。
この点、日タイ企業間の価値共創を通じたイノベーション創出には、依然として大きな拡張の余地が残されている。タイは東南アジア最大の日系製造業集積地で、その厚みあるサプライチェーンは投資環境上の明確な優位性を形成している。しかし、日系コミュニティー内の取引にとどまらず、地場産業界との連携を深化させることが新たな事業機会の創出につながるだろう。
さらに、2000年代以降、タイ企業による対外直接投資はASEAN域内を中心に着実に拡大している。タイ投資委員会(BOI)が策定した「2023~2027年 投資奨励戦略」でも、競争力あるタイ企業の国外展開支援を主要施策の1つとして位置付けている。こうした流れを踏まえれば、過去数十年にわたって培われてきた日タイ企業間の信頼関係を基盤に、第三国市場への共同展開という新たなビジネスモデルの構築も十分に視野に入るだろう。
総じて、タイは依然として東南アジア最大の日系製造業集積地であるものの、地政学リスクの高まりや、人材不足、競争環境の変化などで投資環境は大きな転換点を迎えている。これらを単なる「リスク」として捉えるのではなく、産業構造の再編と競争力再構築の好機として生かす視点が求められる。
日本企業は、高度な技術力と人材育成力を軸に、タイ企業との協力を深化させることで、持続可能な競争優位を確立し得る。一方、タイ政府は、産業政策と人材戦略の統合を進め、持続可能な成長モデルの実現を図るべきだ。その際、日タイ連携の強化に向けた情報や資金、機会の提供が政策的支援の重要な柱となるだろう。
- 注1:
- 「わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告」〔国際協力銀行(JBIC)〕各年版参照。
- 注2:
- 産業高度化を目指すタイ政府の指針。次世代自動車、デジタル、バイオテクノロジーなど12分野を重点産業とし、投資誘致を図る。
- 注3:
- タイ政府が推進する国家戦略で、バイオ、循環型、グリーンの3要素から成る。生物多様性や既存産業の強みを生かし、イノベーションを通じて持続可能な経済成長を目指す。
- 注4:
- ジェトロは在タイ日系企業のサプライチェーン対応を調査するため、ヒアリング調査を行った(2025年8月)。
- 注5:
- タイ工業省は国内産業の発展と環境保全を両立させる目的で、Green Industry Projectに基づく認定制度を創設。継続的な環境配慮活動と持続可能な工業発展への貢献から、達成レベルを5段階(Level 1~5)で評価。同レベルの「グリーン産業マーク(Green Industry Mark)」を与える。
- 注6:
- ジェトロは2025年1月、タイで活動する日系企業に対して、競争環境に係るヒアリングを行った。
- 注7:
- 2023年度のジェトロ海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)では、自動化の障壁について、在タイ日系企業(有効回答)のうち5割超が「自動化技術を扱える人材の確保が困難」と回答。
- 執筆者紹介
-
ジェトロ調査部アジア大洋州課 課長代理
田口 裕介(たぐち ゆうすけ) - 2007年、ジェトロ入構。アジア大洋州課、ジェトロ・バンコク事務所を経て現職。




閉じる






