特集:変わりゆく中東とビジネスの可能性ハイテクエコシステムの成長に「多様性」の力を(イスラエル)

2021年8月31日

「多様性」が生み出す力が、ハイテクエコシステムの成長に貢献

イスラエルは、国そのものは「ユダヤ人の国」として建国されたため、必然的にユダヤ人が多数派を占めるが、世界中からの移民で成り立つ多様性の高い国である。ユダヤ教徒に加え、イスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人、イスラム教の一派とされる少数派のドゥルーズ派、エチオピアなどアフリカからの移民など、一定の少数のコミュニティが存在する。また一口にユダヤ人といっても、決して同質的ではなく、宗教の面では超正統派から世俗派、出自の面でも欧州・ロシア系から中東・アフリカ系と幅広い。この多様なコミュニティの共存が、度々イスラエル社会に分断と対立を生んできた。

また、伝統的な男女の社会的役割の規定は、先進的と思われがちなハイテクエコシステム[ベンチャーキャピタル(VC)やスタートアップなどからなるハイテク産業体]で働く人々の中にあっても、いまだに顕在的である。

世界から注目される、イスラエルのハイテクエコシステムの担い手の多くは、ユダヤ人男性だ。今回紹介する「パワー・イン・ダイバーシティ(「PinD」)」は、より多くの女性や少数派コミュニティの出身者がイスラエルのハイテクエコシステムに参画・定着することで、その多様性が生み出す力を、エコシステムのさらなる成長につなげようとするイニシアティブである。「PinD」は、イスラエルを代表するVCの1つ「ヴィンテージ・インベストメント・パートナーズ」のマネージングパートナー、アラン・フェルド氏が提唱して始まったもので(注1)、現在では約40社のVC、130社以上のスタートアップが趣旨に賛同して参画している。エコシステムの発展に影響力のあるVCがこうした動きを主導し、社会の包摂的な発展に寄与することが、イスラエルのより一層の発展につながるという考えが背景にある。

本稿では、「PinD」のマネージングディレクターであるシャハル・シリス氏、「PinD」に参画するVCの1つである「クムラ・キャピタル」マネージングパートナーのシヴァン・シャムリ・ダハン氏(ともに6月1日)の2人と、「PinD」のアプローチを実際に社内変革に取り入れたスタートアップ「ミニット・メディア」のチーフピープルオフィサー(CPO)リアット・シャハル氏、組織開発担当VPのトハル・カイト氏の2人(ともに8月4日)に、それぞれ話を聞いた。

「PinD」の取り組みの第1歩は、人材に対する企業の意識変革(「PinD」「クムラ・キャピタル」)


パワー・イン・ダイバーシティ マネージング
ディレクター シャハル・シリス氏(本人提供)

クムラ・キャピタル マネージングパートナー
シヴァン・シャムリ・ダハン氏(本人提供)
質問:
人材に対する意識変革において重要な点は。
答え:
市場における人材の需給を考えた場合、これまでは需要側である企業の意識はとにかく「ユダヤ人男性」の必要性に置かれていた。経営層が同質的な人材の雇用・登用を欲してきたためだ。これを「多様性を持った企業の方がより強く、レジリエント(弾力性のある、回復性のある)である」という意識に変革していく必要がある。
また、供給側から考えた場合、女性や少数派コミュニティ出身者が雇用・登用されることは、その人物が後に続く人たちのロールモデルになり得る。「女性やアラブ人であっても、ハイテクスタートアップの技術者や経営者になれる」ということが、社会の中できちんと認識され、受け継がれていくことが重要である。もちろん、そのためには「子供の送り迎えは女性の仕事」といった伝統的な男女の社会的役割の概念のアップデートや、教育機会のより一層の充実など、他の様々な要素も絡んでくるため、「PinD」の取り組みだけでは十分ではない。政府やコミュニティとの連携が必要だが、少なくとも企業における雇用のあり方を変えていくというところに我々は注力している。
現在、企業の研究開発部門に占める女性の比率は20%程度、マネジメント層には10~15%、CEO(最高経営責任者)に至っては7~8%程度。アラブ人は、ハイテク企業の雇用全体のわずか1%に過ぎず、超正統派が3%程度、エチオピア系に至ってはほぼゼロだろう。この状況を変えていきたい。
質問:
「PinD」の具体的な取り組みは。
答え:
イスラエル社会における多様性の尊重に向けた課題は、まずより多くの女性、超正統派やアラブ人、エチオピア系などの少数派コミュニティ出身者を雇用の場で包摂していくことだ。そのためには、VCやスタートアップ各社における意識変革を促すことにより、多様性尊重のための組織的なメソッドの導入をサポートする必要がある。これによって彼らは女性や少数派にとって参加しやすい職場環境を整備することができる。
具体的には、産業全体のロールモデルになるようなケースを生み出すために、社会心理学の専門家とともに開発したメソッドを、「PinD」のプログラムに参加した企業に導入してもらっている。まずはじめに、その企業の「多様性」の実態を把握するために、「社員がどのようなことに価値を感じているか」などの様々なデータを把握し、その上でフォーカスグループディスカッションなどを通じた相互の価値の共有や、それらに基づいた新しい制度の設計・導入などの具体的なアクションに移り、プログラム実行後に変化の検証も行っている。たとえば「PinD」のプログラムを導入した「ミニット・メディア」では、プログラム導入前と比べて、研究開発部門で働く女性の比率が22%から44%に倍増した。また、すでに複数のアラブ人が技術部門で雇用されていると聞いている。
質問:
取り組みによるポジティブな変化は。
答え:
すでに多くの変化が各企業のあらゆる段階で生じている。組織運営上のみならず、対外的なサービス展開においても、女性や少数派の需要に寄り添うような新しいソリューションが生まれている。
もう1つの観点としては、起業家あるいはスタートアップのCEOやCTOなど経営幹部として働く女性が増えると、女性の投資家への投資に関する相談が増える、あるいは女性の雇用が増えるということだ。今後さらに取り組みが進めば、同じことがアラブ人起業家によるアラブ人投資家への相談、アラブ人社員の雇用という点でも言えるようになるだろう。

全ての社員にとって、能力を発揮し続けられる場所であること(「ミニット・メディア」)


ミニット・メディア チーフピープルオフィサー
(CPO)リアット・シャハル氏(本人提供)

ミニット・メディア 組織開発担当VP
トハル・カイト氏(本人提供)
質問:
「PinD」への参画の経緯は。
答え:
実際に「PinD」のプログラムに参加したのは3年ほど前。その前から組織の多様性尊重について取り組みがなかったわけではないが、経営上の大きなアジェンダにまではなっていなかった。その後、小規模な取り組みが、「PinD」のプログラムによってより計画的に進められるようになった。
この背景には、2019年11月に米国のウェブメディア「ザ・プレイヤーズ・トリビューン(TPT)」(注2)を買収したこと、そして2020年5月の「ジョージ・フロイド事件」に端を発して、改めて全米的なデモや暴動に発展した「Black Lives Matter」運動(注3)に触発されたことがある。特にTPTの買収によって、当社のアサフ・ペレドCEOの多様性の尊重に関する意識が大きく変わった。TPTのアメリカオフィスで働く従業員の多様性と、彼らが生み出すエネルギー、高いパフォーマンスに圧倒され、イスラエルの自らのオフィスにもこれが必須だと感じたという。それ以前からも、ペレドCEOは人材の雇用、登用について差別的な扱いをすることは一切なかったが、TPTの買収をきっかけに、多様性の尊重が一気に経営上の最重要アジェンダに躍り出た。
質問:
具体的な取り組みとその成果は。
答え:
当社を含めたイスラエルのハイテクスタートアップは、非常に男性的で、軍の特殊部隊などから引き続いてきた特定の人的サークルで独占された雰囲気や、職場環境であることが多い。女性や、徴兵義務がないためそうしたサークルに入っていないアラブ人などは、そこでは少数派となる。
ミニット・メディアでは、第1段階のプログラムとして、女性社員の働きやすさの向上を目指した。ディスカッションなどの3年間の取り組みを通じて、当初設定した目標をおおむね6割くらい達成できたと考えている。その目標とは、職場における女性従業員比率、定着率を高めるとともに、特に産育休後など女性特有のライフイベント後の復帰率も高めることである。
男性は「職場に入ってこない、戻ってこないのは、女性(やアラブ人)の判断の問題だ。我々は差別していないし、歓迎している」と言いたいかもしれない。しかし、それは自らが同質的な多数派に属していることに気が付かない人の考え方である。自らの考え方・受け入れ方を変えないと相手に与えるメッセージは変わらない、ということをまず共有する必要があった。
そこで、「PinD」のプログラムに則し、まず全社員が参加するフォーカスグループディスカッションを実施し、自分たちの会社にとって多様性を尊重するために必要な価値基準について話し合った。「帰属意識(Belonging)」「寛容性(Tolerance)」「公正性(Fairness)」「発言への制約を感じない環境づくり(Voice)」という4つの価値を明らかにしたうえで、どの部分から優先的に取り組むかを議論した。議論の過程で、全ての人を平等な条件で扱うことが必ずしも重要なのではなく、様々な出自や背景を持った人たちが同じ職場で(異なる役割を含めて)十分に能力を発揮することができているかを問うほうが重要だと気が付いたため、「公正性」をまず高めることに注力してきた。
その具体的な成果が、女性社員比率の増加と産育休明けの時短勤務を含めた、柔軟な働き方制度の実現である。ただし、当社が一連の変革を実現できた背景には、まず経営者の意識変革に伴う強いリーダーシップがあったこと、企業規模がそれなりに大きくなり(現状約400人)、こうした議論ができる土壌が形成されていたことなどがある。単に人事部門にプログラムを押し付けるだけでは、変革の実現は難しいだろう。
質問:
今後の取り組みの方向性、展望は。
答え:
今後は、「次世代エンジニアプログラム(Next Engineering Generation)」と題した多様性の尊重に向けた第2段階の取り組みを行っていく。今度は女性のみならず、アラブ人など少数派コミュニティ出身者も対象にしていく。6カ月前には、当社にはアラブ人社員は1人もいなかったが、現在では3人が技術部門の高職位についている。
質問:
国際的にはESG投資(注4)などに注目が集まっているが、今後イスラエルでもVCなどの投資会社が、企業の多様性の尊重への取り組みを出資条件にしていくような動きがあると考えるか。
答え:
現状では、多様性を尊重する経営方針や取り組みの有無は、必ずしも出資条件にはなっていない。しかしながら、少なくとも私たちは人材の多様性を尊重し、そのことを自らの成長のカギとしている企業に、より多くの投資が集まるような未来が望ましいと考えている。

注1:
パワー・イン・ダイバーシティの創設は、米国ナショナル・ベンチャーキャピタル協会が2014年に開始したダイバーシティ・タスクフォースと、その設置のきっかけとなった年次総会でのハイテクセクターにおけるダイバーシティの重要性に関する議論に大きな影響を受けたとしている。
注2:
元ニューヨーク・ヤンキースのデレク・ジーター氏が2014年に創刊した、スポーツ選手の活躍とともにその裏側にあるパーソナリティやライフヒストリーを同時に伝えるウェブメディア。日本版が2021年から創刊されている。
注3:
2020年5月25日に米国ミネアポリス近郊で起こった、アフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイド氏が警察官による不適切な拘束によって死亡した事件、および2013年ごろから始まり、同事件をきっかけに改めて全米的なデモや暴動に発展した、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える運動。
注4:
特に、環境・社会・企業ガバナンスに配慮している企業を重視・選別して行う投資のこと。
執筆者紹介
ジェトロ・テルアビブ事務所
吉田 暢(よしだ のぶる)
2004年、ジェトロ入構。アジア経済研究所、ERIA支援室、英サセックス大学開発研究所客員研究員、デジタル貿易・新産業部を経て、2020年8月から現職。

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