「次のフロンティア」アフリカを巡る世界各国・地域の動向世界はアフリカとどう向き合ってきたか:独立から現在まで
2025年6月16日
現在、54ヵ国、約15億人の人口を擁し、「最後のフロンティア市場」と呼ばれるアフリカだが、ここに至るまで、世界はどう向き合ってきたか。6つの時代に分けて考察する。
1950年代から1960年代の独立期
第2次世界大戦後、世界中の植民地で民族自決主義が隆盛し、独立運動が起こるが、アフリカでも、1956年にスーダン、1957年にガーナが独立し、1960年には17のアフリカ植民地が独立して「アフリカの年」と言われた。1960年代を通じて31の国家がアフリカ大陸に誕生する。アフリカの民族主義は、部族分割支配に反対するパンアフリカニズムの形態をとったが、国境は植民地遺制を継承して、アフリカは小国家の集合体となった。
当時、アフリカ総輸出の7割は農産物で、ナイジェリアの原油採掘もいまだ本格化しておらず、経常収支はおおむね赤字だった。旧宗主国たる英国がまず行ったのは、この赤字補填(ほてん)に米国を巻き込むことで、つまりは国際援助体制の構築である。一方、フランスの主導で欧州経済共同体(EEC)と開発途上国・地域は1963年、ヤウンデ協定を結んだ。その狙いはドイツを含む欧州全体を旧植民地支援に組み入れるところにあった。この経済協定は1975年、ロメ協定に発展する。この時期、対アフリカ政策の主題は援助のあり方だった。
他方、開発途上国側では、低開発の根本原因を先進国との不公正な経済関係に求める南北問題論が共有され、一次産品価格を国際交渉によって安定させることが主題だった。
当時、アフリカは人口が希薄なだけでなく、死亡率も高くて人口増加率は低いと考えられており、人口が密集したアジアのほうが貧困と飢餓の脅威は深刻と認識されていた。アフリカの人口動態が把握されるようになるのは、1970年代後半になってである。
石油危機、そして経済苦境へ
南北問題論が掲げた資源恒久主権の主張は、1973年の石油危機で原油については実現する。アフリカの石油輸出国は現在ほど多くなかったが、原油価格の高騰はナイジェリアを中心に、アフリカ経済を拡大させた。まだ南アフリカ共和国がいなかったサブサハラアフリカ(注)においてナイジェリアは、1970年代後半、GDPが地域合計の6割を占めていたのである。しかし、石油危機が引き起こした世界同時不況は非産油途上国の経済を毀損し、1980年代に入って原油価格が急落すると、アフリカ経済全体が成長力を喪失する。中でもサブサハラ・アフリカの経済状況は急激に悪化して、工業化が進むアジアとの差が開いていった。
1980年代以降、原油を含む一次産品価格は長期低迷期に入る。衣料製品輸出で急成長したモーリシャスを除くと、製造業輸出を持っていないに等しいサブサハラ・アフリカの外貨獲得能力は著しく減退して債務危機に陥り、対アフリカ政策の主題は債務救済にシフトしていく。
構造調整の時代
1980年代には、開発途上国全般が債務危機に見舞われたが、南米やアジアは民間債務、アフリカは公的債務が中心だった。対アフリカODAの7割は無償援助だったから、累積債務の核は世界銀行はじめ国際援助機関によるものだった。
世界銀行とIMFは、アフリカ諸国のマクロ経済バランスを回復するため、構造調整融資を導入した。これは、債務リスケに当たって政府支出の削減や市場規制撤廃などを条件とする有償援助で、背景には1970年代後半に形成された開発(マクロ)経済学がある。開発経済学の理論は東アジアの高成長を見て構築されたものだが、政策勧告の対象は主にサブサハラ・アフリカだった。
他方、低開発の淵源は世界的要因、すなわち植民地遺制や先進国による収奪だとする南北問題論は急速に影響力を失っていった。1981年からアフリカはODAの最大受け取り地域となり、その基調は現在も続いている。
1990年代:経済停滞と民間企業の台頭
構造調整は数年で効果が得られると期待されていたが、1990年代になっても、アフリカの経済成長率に回復の兆しは見えなかった。アフリカ諸国は低成長と援助依存に沈んでいき、先進国側には援助疲れとアフリカ悲観論(アフロペシミズム)が沈殿していった。
その一方で、アフリカで最大課題の1つだった南アのアパルトヘイトが1991年に廃止され、民主化プロセスが始まると、それまで国内に閉塞していた南ア企業が国際展開に乗り出す。民主化後の南アには世界中から民間資本が流入して起業の動きも盛んになり、資本再編が進んだ。さまざまな業種の南ア企業がアフリカ各国に進出し、南アを起点としてアフリカの民間部門が強化されていった。
2003~2013年資源ブーム
イラク戦争を契機とし、中国の旺盛な資源需要を背景として始まった資源価格の全般的高騰は、ODAの大量投入では起動しなかったアフリカ経済に劇的な成長転換をもたらした。アフリカのGDPは10年間で約3倍増する。また、中国のアフリカ攻勢が始まって、対アフリカ貿易投資で主導的プレゼンスを確立し、中国は欧米をしのぐ影響力を持つようになった。
資源輸出の急増に支えられた民間消費爆発は、南ア以外でも企業の成長を促した。鉱業部門、金融部門、建設部門の拡大、携帯電話の普及やBOPビジネスは、政府ではなく企業が主導したものだ。細かく分かたれた国境に阻まれて、これまで規模の経済を享受できなかったアフリカの企業は、越境して多国籍化するようになり、各地で起業ブームが起きる。アフリカ諸国の政府は大規模インフラ建設に邁進(まいしん)した。
先進諸国のアフリカ政策は、それまでの援助外交から貿易投資を基軸としたものにシフトし、中国のみならず、インドやトルコ、ブラジルやアラブ首長国連邦(UAE)といった新興諸国がアフリカでのビジネス展開に乗り出した。アフロペシミズムに代わって、極めて楽観的な「アフリカライジング」の10年が続いたのだ。
資源ブームの終了と新たな混迷の時代
資源ブームが終焉(しゅうえん)して原油価格が下降し始めると、アフリカの外貨収入は減少し、アフリカ諸国政府による過大な借り入れは再び債務危機をもたらし、財政余力は失われた。また、各地で紛争が多発するようになり、欧州はアフリカ難民の流入を抑制する必要に迫られている。他方では、脱炭素対策や先端技術産業のため、銅や希少金属を求めて新たな資源獲得競争が始まった。
第2次トランプ米政権の誕生で、多くの援助プロジェクトが停止されたが、このことはHIV/AIDS対策や対テロ対策をはじめ、アフリカ諸国がいかに米国に依存してきたかを浮き彫りにした。加えて、ウクライナ戦争やガザ紛争、アフリカ内での諸紛争に関して、アフリカ諸国は統一姿勢をとれなくなっている。
混迷が深まる情勢の中で、それでもアフリカの人口は増え続けている。1960年に3億に達していなかったアフリカ総人口は2022年には14億人を超え、人類の18%を占めるに至った。世界で最も高い人口増加率に減速の気配はみられず、アフリカの消費者数は着実かつ急速に増え続けている。今世紀後半にはアフリカは世界で唯一、人口が増加する地域になるが、その人口圧は移民や食糧問題のみならず、さまざまな作用を生み出すに違いない。将来のアフリカ政策は、このような人類のあり方の変化に牽引されていくことになるだろう。
- 注:
- アパルトヘイト体制下にあった当時の南アはアフリカ統一機構(OAU)加盟国でなく、むしろアフリカ諸国と敵対関係にあって、国際的にもアフリカグループの一員とみなされていなかった。

- 執筆者紹介
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ジェトロ調査部上席主任調査研究員
平野 克己(ひらの かつみ) - 1991年、アジア経済研究所に入所。ヨハネスブルクセンター所長、地域研究センター長などを経て、ジェトロ理事(2015~2019年)。著書に『図説アフリカ経済』(国際開発研究大来賞)、『経済大陸アフリカ』『人口革命:アフリカ化する人類』など。