分断危機下の最適なグローバルサプライチェーンとは原料貿易に見る医薬品産業の供給集中の実像(米国)
2026年5月13日
世界の医薬品貿易においては、新型コロナウイルス感染症のパンデミックも契機に、アイルランドから米国への供給網が急速に確立された。特に医薬品原料におけるアイルランドの存在感拡大が、一時的な輸出増ではなく、多国籍製薬企業のグローバル戦略や、米国の通商政策リスクを織り込んだサプライチェーン再編の結果である点を、本稿で明らかにする。
医薬品原料、アイルランドから米国への流れが固定化
世界の医薬品・医療用品(HS30類)輸出額(注1)は、2024年に前年比8.3%増の9,263億ドルとなり、過去最高を更新した。上位輸出国であるドイツ、スイス、米国、アイルランドの輸出がいずれも堅調だった。一貫して最大の輸入国である米国は、世界の輸入総額の21.6%を占め、次点のドイツ(8.0%)を大きく引き離している。
一方、医薬品よりも近年顕著な変化が貿易統計に表れたのが、医薬品原料(HS2936~2939、2941)だ。ビタミン、ホルモン、抗生物質など、錠剤や注射薬となる前段階の有効成分そのものが含まれる。2024年の世界の輸出総額は、前年比15.5%増の631億ドルで過去最高更新を続けた。特にアイルランドからの輸出は、コロナ禍以降急激に存在感を高めた。2024年時点で世界の輸出総額の29.1%を占め、極めて偏重した輸出構造が出来上がっている(図1)。同国は2025年も、前年の3.2倍に当たる593億ドルへとさらに輸出を増加させた。注目すべきは、アイルランドからの輸出増が世界全体の市場拡大を大きく上回るペースで進んでいることだ。なお、医薬品原料においても医薬品同様、米国が最大の輸入国であり(2024年の対世界シェアは30.6%)、2025年には前年比2.9倍に当たる616億ドルを輸入。アイルランドが輸入総額の9割以上を占め、同国から米国への原料供給網が強力に確立されていることが分かる。
注:2024年の輸出額上位5カ国を表示。
出所:ジェトロ推計値(Global Trade Atlas〔S&P Global〕)から作成
表1は、医薬品原料の輸出動向を2019年と2024年で比較した際、対世界のシェア変化が大きい国・地域ほど濃い色で示したものだ。ここでも、アイルランドから米国向けの関係が強まっていることが顕著であり、これと逆行するかたちで、欧州域内の貿易も含め世界のその他地域が軒並みシェアを落とした。医薬品原料の貿易は世界的に分散することなく、特定方向に集中していることが分かる。背景には、コロナ禍を契機とした供給途絶リスクへの警戒に加え、とりわけ米国市場向け医薬品については、規制や安全保障を含む政策要因が大きく影響したものと考えらえる(注2)。結果として、原料段階から米国市場を見据えた生産配置が進み、米国を起点としたサプライチェーンが形成されるようになった。
アイルランドは、法人税率の低さに加え、知的財産(IP)を核とする製薬・バイオ分野の集積が進んでおり、原薬の生産から最終製剤に至るまで一貫した供給能力を備えている。加えて、米国市場向けの供給においては、EU域内での適正製造規範(GMP)対応による確実性や品質管理体制の信頼性が評価され(注3)、中国などからのリスク分散先として選好されたと考えられる。
米国の医薬品政策と関税リスクの再浮上
既述のとおり、米国は医薬品原料の9割をアイルランドに依存する状況にある。2019年にアイルランドが首位に立って以降、中国やイタリアといった従来の供給国の存在感が相対的に低下した(図2)。一方、2025年以降の月次輸入動向は乱高下している。同年初に、関税懸念を背景とした前倒し輸入が集中し、その反動で7~8月にアイルランドからの輸入が急減。夏場にかけては、EUと米国間の通商条件が不透明で、取引が一時見送られた影響もあったと考えられる。9月には、通商協議の合意を受け滞留分が再開し一時的に回復するも、10月以降は再び在庫調整局面に入り、これに代わって汎用(はんよう)品を中心とした価格競争力の高い中国産原料の一部が流入し、中国に持ち直しの動きがみられる。
医薬品は元来、WTOの医薬品に関する関税撤廃合意
に基づき、完成品および関連原料を含め関税不賦課が原則とされてきた。この枠組みの下、医薬品は長らく主要国の関税賦課対象から実質的に外れた聖域として位置付けられていた。しかし米国では現在、この例外的地位そのものを見直す動きが強まっている。2025年4月に、米国商務省産業安全保障局(BIS)が通商拡大法232条に基づき、医薬品および医薬品原料の輸入が国家安全保障に及ぼす影響につき調査を開始したことは、その象徴といえる(2025年4月15日付ビジネス短信参照)。その後2026年4月には、商務長官の調査の結果として、232条に基づき医薬品に100%の追加関税を課す大統領布告が発出された(2026年4月3日付ビジネス短信参照)。ただし、米国での製造計画を有する企業や、薬価について既に米国と協定を締結済みの企業、日本含め医薬品関税につき米国と合意済みの国・地域に対しては低い税率を適用するなど、例外措置も広範に設けた。米国の狙いは、直ちに関税を課すことよりも、米国内生産能力の強化や企業による対米投資を促す点にあり、232条も政策カードとして活用されているといえる。その結果、関税が実際に発動されていないにもかかわらず、将来的に発動され得る不確実性そのものが企業行動に影響を与え、在庫積みやサプライチェーン再編を促す要因となった。
注:2025年の輸入額上位5カ国を表示。
出所:Global Trade Atlas(S&P Global)を基にジェトロ作成
政策リスクを織り込んだ医薬品サプライチェーン再編
米国の政策変更により、2025年上期を中心に、関税措置発動の前段階での前倒し輸入が観測され、その結果、貿易統計上はホルモンを中心とした原料の対米輸出が急増する構図が生まれた。一方、中長期的には、米国内での原料製造能力の拡充や、アイルランドのように政治的に安定し、かつ米国と制度的親和性の高い国からの調達集中が進みつつある。
大手製薬企業による2025年以降の動きをまとめたのが表2だ。米国の関税政策を巡る製薬企業のサプライチェーン再編は、特定企業の個別対応にとどまらず、グローバル製薬産業全体の行動変化として表れつつある。例えば、イーライリリーやファイザーに代表される米国企業は、関税リスクが顕在化する前段階から在庫積み増しや国内製造能力の拡充を進め、原料段階を含めた米国完結型の供給網を志向していることが分かる。一方、欧州や日本の企業も、影響が限定的だとしつつも、米国向け供給については米国内製造比率を高めるなど、実務面では同様の方向性を示している。加えて、欧米の一部企業は、政権の要請に応じて薬価の引き下げに合意し(2025年12月23日付ビジネス短信参照)、これら企業は結果として232条に基づく関税賦課を免れた。
これらの動きは、必ずしも高関税そのものの発動を前提としておらず、むしろ将来的な措置発動の可能性や薬価に関する政策環境の流動化によって不確実性が常態化することが、企業にとってのコストとして認識されつつある。その結果、世界の医薬品原料のサプライチェーン再編は、コスト効率化や複数地域への地理的分散というより、政策の予見可能性への耐性を強めることを優先し、信頼可能な特定拠点への集中というかたちで進みつつある。アイルランドから米国への供給の固定化は、その分かりやすい表れであり、今後も政策動向次第で構造が一層硬直化する可能性がある。
| 企業名 | 本社所在地 | 発表時期 | 詳細 |
|---|---|---|---|
| イーライリリー(Eli Lilly) | 米国(インディアナ州) | 2025年2月 | トランプ政権による医薬品関税導入の示唆を背景に、約270億ドルを投じ米国内4カ所の新工場建設を発表。うち3拠点は原薬(API)生産を想定し、特定国への輸入依存を解消したい考え。関税によるコスト増回避と供給安定性確保のため、原料段階からの国内回帰を志向。 |
| ファイザー(Pfizer) | 米国(ニューヨーク州) | 2025年3~4月 | 医薬品への追加関税が発動された場合、海外拠点で生産している製品を既存の米国内工場へ段階的に移管することを検討。確定投資は控えるものの、既存10カ所の米国内製造拠点をバッファーとして活用し、関税の影響を緩和する。2025年には、既存の関税措置だけで約1億5,000万ドルの影響が出たと見込まれる。 |
| ジョンソン&ジョンソン(J&J) | 米国(ニュージャージー州) | 2026年1月 | トランプ政権との自主的合意により、薬価引き下げと引き換えに医薬品関税の適用除外を確保。米国内製造・研究開発投資(総額550億ドル)を継続し、米国向け先端医薬品の大半を国内生産する体制への転換を進めている。 |
| メルク(Merck & Co.) | ドイツ | 2025年4月 | 相互関税により2025年に約2億ドルのコスト増を見込む。短期的には在庫積み増しで対応しつつ、中長期的には既存工場の役割見直し、外部委託や自社製造能力の拡張により、米国向け供給を米国内で完結させる方向でサプライチェーンを再編。2018年以降、累計約210億ドルの米国内投資を進めている。 |
| ロシュ(Roche) | スイス | 2025年4月 | トランプ政権による医薬品関税導入の可能性を背景に、今後5年間で最大500億ドルを米国に投資すると発表。新規・既存拠点での医薬品や診断薬の製造能力を拡充し、米国向け供給は原則として米国内で完結させる体制を構築。米国からの輸出が輸入を上回る体制を目指している。 |
| ノバルティス(Novartis) | スイス | 2025年4月 | 米国向け医薬品に対する関税リスクを踏まえ、5年間で約230億ドルを投じ米国内製造・研究体制を大幅拡充。新工場建設を含め、将来的に米国市場向け主力医薬品をエンド・ツー・エンドで米国内生産する方針を明確化。関税回避と供給安定を同時に図る再編を進めている。 |
| アストラゼネカ(AstraZeneca) | 英国 | 2025年7月 | 医薬品への高関税導入示唆を受け、2030年までに最大500億ドルを米国の製造と研究開発に投資すると発表。API製造を含む大規模新拠点を設け、米国で販売される医薬品は米国内で製造する体制に移行している。 |
| 武田薬品工業 | 日本 | 2025年5月 | 米国市場が売り上げの約5割を占める中、今後5年間で最大300億ドルを米国内事業に投資すると表明。関税の直接的影響は限定的としつつも、米国製造拠点の高度化や能力増強を進め、リスクに強い供給網を維持。輸入比率引き下げを通じた事実上の関税耐性を確保する狙い。 |
出所:各社プレスリリースおよび報道を基にジェトロ作成
- 注1:
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本稿における「世界」の貿易額は、ジェトロ世界貿易投資報告2025年版に基づく推計値を用いる。推計値の作成方法は、同報告付注2を参照。
- 注2:
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米国は、医薬品・医薬品原料を国家安全保障上の重要物資と位置付け、後述する1962年通商拡大法232条に基づく調査開始においては、輸入集中そのものが安全保障リスクであると指摘した(2025年4月16日付官報
)。 - 注3:
-
米食品医薬品局(FDA)は、EUとの米国間の相互承認協定(MRA)に基づき、EU各国当局の医薬品製造施設の査察能力を順次評価。アイルランドは2018年6月と早期の段階で、米国と同水準で査察を行える国としてFDAが承認した。これにより、アイルランド当局が実施した医薬品工場の査察結果は、米国の規制上も信頼できるものとして扱われる(欧州医薬品庁資料
(193KB))。
- 執筆者紹介
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ジェトロ調査部国際経済課 課長代理
吾郷 伊都子(あごう いつこ) - 2006年、ジェトロ入構。経済分析部、海外調査部、公益社団法人日本経済研究センター出向(2011~2012年)、ジェトロ・クアラルンプール事務所(2021~2025年)を経て、2025年12月から現職。共著『メイド・イン・チャイナへの欧米流対抗策』(ジェトロ)、共著『FTAガイドブック2014』(ジェトロ)、編著『FTAの基礎と実践-賢く活用するための手引き-』(白水社)など。





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