特集:変わるアジアの労働・雇用環境と産業界の対応新型コロナ下、厳格な感染対策が負担増に(ベトナム)
生産地としてのベトナム、変わりゆく労働・雇用環境

2021年10月14日

米中貿易摩擦などを背景に、ベトナムは生産地として注目を集めてきた。その傾向は、2020年に世界的に新型コロナウイルス感染症が流行する中でも変わらなかった。感染の流行下でも、安定した政治・社会情勢を維持した。加えて、やはり中国やタイに比べて安価な人件費、豊富な労働力は魅力的だ。しかし、中長期的には、賃金上昇や労働力不足の問題も懸念されている。直近では、政府の厳格な感染対策が操業上のリスクとして浮上した。

また、生産地としてのベトナムが注目されるに従い、その労働環境についても関心が高まった。進出日系企業の間でも、労働環境の整備、人権尊重に関する取り組みがみられる。ベトナムの労働市場がどのように変化しているのか、新型コロナ流行下での動きを踏まえて考察する。

評価の高い労働力、人件費上昇はリスク

ベトナムの労働力は、日系企業にとって魅力的に映る。ジェトロの「2020年度海外進出日系企業実態調査」によると、在ベトナム日系製造業の作業員基本給は、月額250ドルだった。これは、中国(531ドル)の半分以下。タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン、インドよりも安価だ(図1参照)。ベトナムの投資環境上のメリットとして、日系企業の56.5%が「人件費の安さ」と回答した。また、「従業員の質」を経営上の問題点として指摘した企業の割合は、マレーシア、インドネシア、フィリピン、タイで5割前後だったのに対し、ベトナムでは38.7%にとどまった。ベトナムの労働者は、賃金と質の両面で、おおむね評価されていることがわかる。

図1:国・地域別の日系製造業・作業員の月額基本給(単位:ドル)
中国は531ドル、タイは447ドル、マレーシアは431ドル、インドネシアは360ドル、フィリピンは272ドル、インドは265ドル、ベトナムは250ドル、カンボジアは222ドル、ラオスは210ドル、ミャンマーは181ドル、パキスタンは158ドル、スリランカは123ドル、バングラデシュ115ドル。

注:諸手当を除いた給与。2020年8月時点。カッコ内は回答母数。
出所:2020年度ジェトロ海外進出日系企業実態調査

一方、毎年の賃金上昇が、企業の負担になっている。日系企業の63.7%が「人件費の高騰」を、ベトナムの投資環境上のリスクとして指摘する。政府が定める最低賃金は上昇率が年々低下し、日系企業の賃金上昇率も下がる傾向にはある。それでも、直近5年間は平均7%上昇と、中国やタイを上回る水準で推移してきた(図2参照)。

図2:最低賃金の上昇率と日系企業の賃金上昇率の推移(単位:%)
2013年は17.4%、2014年は15.3%、2015年は14.2%、2016年は12.4%、2017年は7.3%、2018年は6.5%、2019年は5.3%、2020年は5.5%、2021年は0%。日系企業の賃金上昇率は、2013年は12.1%、2014年は9.9%、2015年は10%、2016年は9.6%、2017年は8.4%、2018年は7.4%、2019年は7.4%、2020年は6.6%、2021年は5.2%。

注:2021年は見込み。最低賃金は地域ごとの上昇率の平均値。
出所:最低賃金に関する法令およびジェトロ海外進出日系企業実態調査を基にジェトロ作成

2020年は新型コロナの流行で、多くの企業が影響を受けた。そのため、2021年頭の最低賃金の引き上げは見送られた(2021年1月12日付ビジネス短信参照)。7月ごろに最低賃金を引き上げる案もあがってはいた。しかし、2021年上半期も感染の第3波(1月下旬~2月ごろ)と第4波(4月下旬~)が発生。引き上げの話は立ち消えになった。ただし、日系企業では最低賃金の上昇率にとらわれず、賃金を引き上げたところも多い。日系企業の賃金上昇率は2017年以降、最低賃金の上昇率を上回っている。従業員確保に向け、賃上げが求められているためだ。新型コロナ流行下で賃金上昇は一時的に落ち着いてはいる。しかし、進出企業数が年々増える中、今後も従業員確保と賃上げのリスクと向き合っていかなければならない。

2020年は生産継続で雇用を維持も、2021年は難航

ここで、新型コロナ感染発生後の状況を振り返る。

2020年4月の感染第1波では、全国で外出や営業の制限を伴う社会隔離措置を適用。生活に必要な製品やサービスを提供する店舗以外は、休業を要請された。そのため、2020年第2四半期の雇用者数は前期より約200万人減少した(前期比4.0%減)(図3参照)。

第3四半期以降は、中部地域を中心に感染第2波(7月下旬~8月ごろ)が生じた。ただし、その影響は限定的なものにとどまった。感染の抑え込み成功に伴う経済回復で、第4四半期には雇用者数が感染発生前の水準まで戻った。新型コロナの影響下でも、労働人口の失業率は2%台という低水準を維持するなど、雇用者数への影響は小規模で済んだ。

これには、製造業が一定の雇用を保てたことが貢献している。社会隔離措置下でも、所要の感染防止対策(マスク着用、従業員同士の距離の確保、仕切りの設置など)を講じていれば、企業は原則、生産活動を続けることができた。もちろん、需要の停滞で生産量が減り、一時的に雇用者数を減らす工場もあった。しかし、2020年末に向けて生産量が増え、おおむね雇用状況の悪化を免れた。この間、地場の縫製企業ではアパレル製品の生産からマスクや防護服の生産に切り替えるなど、需要に応じて製品を変更し、売り上げと雇用を確保するといった企業努力もみられた(2021年3月31日付地域・分析レポート参照)。

図3:四半期ごとの15歳以上の雇用者数推移(単位:100万人)
2019年1Qは50.5百万人、2Qは50.3百万人、3Qは50.6百万人、4Qは51.0百万人、2020年1Qは50.1百万人、2Qは48.1百万人、3Qは50.0百万人、4Qは50.9百万人、2021年1Qは49.9百万人。2Qは49.8百人、3Qは47.5百万人。

出所:統計総局の公表資料を基にジェトロ作成

しかし、2021年に入ると感染第3波と第4波を受け、雇用者数が再び減少した。特に7月以降は、ホーチミン市やハノイ市など多くの主要都市で厳格な社会隔離措置が実施された。そのため、第3四半期(7~9月)は雇用者数が前期より230万人減少した(前期比4.6%減)。

厳格な感染対策の要請で企業負担が増幅

感染第4波では、特に製造業において企業と労働者の負担が大きく増幅した。第4波は当初、北部のバクザン省やバクニン省を中心に蔓延(まんえん)。これらの省では、操業休止を命じられる工場が相次いだ。

この際、政府は操業を再開する条件として、労働者を工場に隔離するよう求めた。具体的には、 (1)敷地内に従業員が宿泊できる施設を用意する、(2)外部に宿泊場所を確保し、従業員の移動を宿泊場所と工場間の往復のみに限定する、いずれかの措置が各社に要請された。すなわち、実質的に工場を隔離しながら生産を続けるということだ。その後、感染はホーチミン市をはじめとする南部地域に急拡大。感染リスクの高い地域で操業を継続するためには、工場隔離が求められるようになった(注1)。

従来、工業団地内では原則、社員寮などの宿泊施設の設置は認められていなかった。そのため、ほとんどの企業が一から宿泊施設を用意しなければならない状況に追い込まれた。日系企業の間では、あまりに簡易な施設だと、従業員の健康管理上、支障をきたすという懸念もあった。自社の敷地に余裕があるとも限らない。その場合、外部に宿泊施設を確保するのは、経費負担が重くなる。特に数千人規模の従業員を抱える工場では、苦しい対応を迫られた。さらに、工場隔離に対応できたとしても、出勤できる従業員は数が限られる。結局、稼働率の低下を余儀なくされた。

都市部近郊には、地方省から出稼ぎで来ている労働者も多い。長引く感染対策措置の影響で十分な給与を得られず、帰郷する人が増えている。そのため、感染対策措置が緩和されて企業が稼働率を上げようとした際、すぐに十分な労働者数を確保できないという問題も危惧される。

改正労働法が施行、残業時間上限の引き上げは限定的

最近の労働環境の変化を語るうえで、労働法の改正にも触れておきたい。

政府は2019年11月20日付で改正労働法(45/2019/QH14)PDFファイル(1.85MB)を公布。2021年1月1日から施行された。今回の改正に向けて、産業界からは残業時間上限の引き上げを期待する声があがっていた。特に外資企業からは、年間の残業時間上限を200時間から400時間に引き上げる要望も出ていた。結局、最終的な改正では、月間の残業時間上限が30時間から40時間に引き上げられた。あわせて、例外的に年間300時間の上限を認める業種(繊維、縫製、皮革、靴、電気、電子、農林水産物の生産加工、など)が明示的に規定された。一方で、年間200時間の原則は変わらなかった。

外国人の労働許可については、審査を厳格化する方針が示された。これにより、例えば専門家としての労働許可証取得の際には、大学での専攻と業務が一貫性を厳しく求められるようになるなど、日系企業の駐在員の労働許可取得にも影響を及ぼした(2021年6月29日付ビジネス短信参照)。

そのほか、今回の改正では、労働契約の定義や試用期間に関する変更、定年の延長、祝日の追加、解雇事由の追加、就業規則の作成義務、有給休暇の清算、セクハラへの対応などについて、細部が変更になった。

改正労働法は既に施行済みだが、まだ定義や解釈が不明瞭な点もある。今後の運用状況に注意が必要だ。

グローバルサプライチェーンへの参画で、問われる企業の取り組み

ベトナムは欧米向けの輸出拠点としての役割も強まっている。同時に、ベトナムでの生産に対して、欧米主体の基準順守が求められるようになってきた。

この動きは日系企業にも広がっている。例えばキヤノンは、グローバルサプライチェーンでの社会的責任を推進する企業同盟「RBA(Responsible Business Alliance)」の基準(注2)順守を進めている。当地生産品を欧米に輸出する同社は、現地サプライヤーとともに、RBAの労働衛生環境に関する基準を順守できるよう取り組んでいる。また、アシックスは2020年11月、縫製工場や素材メーカーなどベトナムのサプライヤーを対象に、企業の社会的責任(CSR)についてのセミナーを開催した。このセミナーの狙いは、改正労働法や感染症対策(安全衛生管理)について理解を促すところにある。そのほか、縫製品のOEM生産を管轄する日系商社では、従前から協力工場に残業時間上限の厳守、労働者の年齢確認、安全確保などを徹底してもらっているという。

このように、生産地としてのベトナムが注目されるに従い、その労働環境についても関心が高まっている。一方、労働環境の整備や人権への配慮には、企業としてコストがかかる。日系企業からは、「日系企業が真面目に取り組んでいても、中国系などは完全に無視しているところが多い」との指摘も聞こえる。いかに競争力と人権配慮を担保するか、企業間で公平性を持たせるか、悩ましい現状もある。

人件費以外の要素にも注目

新型コロナ流行下の労働市場では、一時的に人件費の上昇が落ち着いた。その一方で、厳格な感染対策などを受けて、企業の負担はむしろ増幅している。加えて、労働法の改正、グローバルサプライチェーン参画による対応も避けられない。これまでは、生産拠点としての可能性をはかるうえで、人件費の変動に目が向けられることが多かった。しかし、今となっては、人件費以外のコスト増にも一層の留意が必要な状況となっている。

また、人件費のメリットは段々と失われていくのが必然だ。その中で、より安価な人件費や豊富な労働力を求めて、ベトナムの中でも地方省に進出するという事例も出ている。自動化の導入など、人手に頼りすぎない製造を目指していく動きもある。

ベトナムはIT分野で優れた人材が多く、ハイテク技術の面でもポテンシャルは高い。日本への留学生や技能実習生の活用も、日系企業にとって魅力になる。安価な人件費という絶対的な強みは失われつつあるのかもしれないが、ベトナムの労働力は多様な可能性を秘めている。


注1:
敷地内に従業員が宿泊できる施設を用意する方式は、「3つを現場で」(業務、食事、宿泊を工場内で行うこと)と呼ばれる。また、外部に宿泊場所を確保し、従業員の移動を宿泊場所と工場間の往復のみに限定する方式は、「2つの場所を1つのルートで」と呼称。これらは全国的に感染リスクの高い地域で適用された。
注2:
RBA基準は、欧米企業を中心に重視される傾向が強まりつつある。実際、この基準順守が取引要件に含まれることもある。
執筆者紹介
ジェトロ・ハノイ事務所
庄 浩充(しょう ひろみつ)
2010年、ジェトロ入構。海外事務所運営課(2010~2012年)、横浜貿易情報センター(2012~2014年)、ジェトロ・ビエンチャン事務所(ラオス)(2015~2016年)、広報課(2016~2018年)を経て、現職。