特集:変わるアジアの労働・雇用環境と産業界の対応コロナ禍による労働・雇用環境の変化は限定的(インド)

2021年10月6日

インドにおける新型コロナウイルス感染拡大に伴う雇用状況は、企業活動が停止された2020年3月末以降のロックダウン時には、失業率が一時的に上昇するなど大きな影響が出たが、経済活動が平常化するに従い改善し、恒久的な雇用環境の悪化という事態には陥っていない。2021年7月時点の失業率は6.95%(インド経済モニタリングセンター)と、ほぼコロナ禍前の水準に回復している。この間、インドの民間企業は地場、日本企業を問わず、在宅勤務の導入、感染予防対策の徹底、離職に伴う労働力の補充など、様々な対応を迫られた。また、企業は休業による給与の補填(ほてん)、コロナ保険への加入、PCR検査やワクチン接種への補助など、財政的な負担も余儀なくされた。ただし、在インド日本企業数社へのヒアリングや簡易なアンケート調査の結果をみる限り、新型コロナを理由とした賃金面など大きな雇用条件の悪化や就業規則の大幅変更など、労働環境の変化はみられなかった。

ロックダウン時には失業率が上昇

2020年以降の新型コロナの感染拡大は、インドの雇用情勢に大きな影響を与えた。特に同年3月から5月にかけて全国で実施された厳格なロックダウンでは、エッセンシャル(生活必需)業種以外全ての企業活動が基本的に停止したことで、都市部を中心に数千万人と言われる大量の失業者が発生した。列車や徒歩で故郷を目指す労働者の姿が、メディアで何度も報道された。雇用情勢は一気に悪化し、2020年5月時点の失業率は25%を記録した。

その後、9月以降、経済活動が徐々に平常化されていく中で、雇用環境も改善された。1日当たりの新規感染者数が1万人強と低位安定していた2021年2月、3月ごろは、コロナが終息したのでは、という希望的観測もみられていた。ところが、3月中旬から5月にかけて強烈な第2波が襲い、再びロックダウンを行うことを余儀なくされる。このときは、2020年の第1波時よりも感染者数は桁違いに多かった(図参照)。ただし、第2波におけるロックダウンでは、全国一律で経済活動を止めることはなく、各州別に感染度合いに基づきロックダウンを行ったこと、工場などでの生産活動や物流といった企業活動は継続的に行われていたことから、2020年のロックダウン時のような大量失業者が出ることはなった。

インドにおいて、コロナ禍が雇用情勢に深刻な状況を与えたのは、観光、飲食、小売りなどのサービス業や、建設などの日雇い労働者が中心だった。失業率が悪化したのは、20代を中心とする若い層であることも特徴的だ。しかし、進出する日本企業の多い製造業や金融などサービス業においては、基本的に雇用は維持され、それほど大きなインパクトはなかったといえる。

図:インドの新型コロナ新規感染者数推移
3月頃から漸増。9月に約10万人というピークを迎えた。その後は、感染者数は3月まで減少傾向にあり、3月の感染者数は、1万人台にまで減少していた。しかし、3月末頃から、感染者は急増。5月上旬に約40万人のピークを迎えた。7月上旬~8月には減少し、4万人程度の数字で推移している。

出所:WHO

2020年の昇給率は鈍化

ジェトロがインド日本商工会(JCCII)と共同で実施し、2020年9月に発表した「第14回賃金実態調査」(2020年10月27日付地域・分析レポート参照)では、主に同年に実施された厳格なロックダウンによる業績悪化の影響を受け、2020年昇給率見込みは、ここ数年続いていた10%前後を大きく下回り、スタッフ(事務職)では5.6%、ワーカーは3.7%と1桁台の伸び率にとどまった。調査結果では、コロナ禍で業績に大きな影響があった業種とそうでない業種によって差が出ていることも認められた。
しかし、2021年7月に実施したヒアリング(注)では、コロナ禍を理由に賃金調整した企業はなく、業績に基づき、淡々と給与改定を行った企業がほとんどだった。2021年については、2020年に比べて業績が回復する企業も多いと予想されるため、コロナ禍が継続する中でも、賃金は再び上昇傾向になる可能性が高いと思われる。

スタッフは在宅勤務が一般的に

ヒアリングを行った企業の勤務体制の変化として最も多く挙げられたのは、在宅勤務の導入だ。特にスタッフに対しては、ラップトップPC(パソコン)の支給など、素早く在宅勤務ができる体制を整え、今でも原則在宅勤務としている企業が多い。ただ、在宅勤務を制度として導入済み、あるいは検討している企業は少数派だ。多くは、現行の就業規則の運用の範囲で在宅勤務を認めている。一方、生産現場を持つ製造業や店舗を持つ小売業は、すべて在宅勤務というわけにはいかず、ロックダウンで出勤できない場合を除き、出勤を原則としている。インドでは2度のロックダウンを経験したこともあり、勤務体制の変更については、臨機応変かつ柔軟に対応できるように、企業は対応してきている。

活動制限の影響は限定的

企業が対応に最も苦慮したのは、中央政府や州政府が通達する活動制限への対応である。出勤して良いのか、出勤可能な場合の条件(移動に際しての許可証:e-passの取得や州政府への登録など)は何なのか、プロセスが明確でない場合も多く、かなり混乱した。中でも、デリー準州、ハリヤナ州など複数の州が一体となって経済圏を構成するデリー首都圏では混乱が顕著だった。首都圏は、隣接する州境を越える人やモノの移動が多いことから、州境の閉鎖によりマンパワーの不足が生じるなど、影響が大きかった。また、インドならではのケースとして、地方から出稼ぎに来ているワーカーが多いが、感染を恐れて故郷に帰り、そのまま戻ってこなかった従業員も少なからずいた。このような状況の中、必要な労働力をいかに安定的に確保するかが、企業にとって最も頭の痛い問題だった。

第2波では、ワーカー自身やその家族が多く感染したことにより、引き続き、マンパワー不足が課題となった。ヒアリングした企業の中には、5,500人の従業員のうち約2割が感染するなどしたため、2カ月以上にわたって常に欠勤者が出てしまい、シフトの変更や人員の融通などの対応に追われたという企業もあった。業務の対応に追われる中、感染者のケアにも対応しなければならなかった。多くの企業で2~3割の従業員が感染し、対応を迫られたものの、解雇や補充での採用はせず、他部署からの補充など、社内で何とかやりくりしていたとみられる。

徹底した従業員の感染予防策

従業員の意識としてコロナ禍で大きく変わったのは、感染予防に対する意識向上だ。特に第2波では、身近なところで感染者が相次いだため、恐怖心も高まり、感染予防により注意するようになった。マスク着用、手洗い、消毒の3原則は当然ながら、外出や会食を控えるようになった。企業も従業員と一体となって、体温測定やPCR検査の徹底、オフィスや社内食堂でのパーティションの設置、ソーシャルディスタンスの徹底など、各社事情に合わせて工夫を凝らした対策を実施してきている。悩ましいのは、感染経路のほとんどが、社内ではなく、家庭など勤務時間外での活動などプライベートに起因することだ。そのため、会社にいる時間をなるべく長くする工夫を行った企業もあった。

感染者が出た場合の対応として、コロナ関連の常備薬の確保、血中酸素濃度測定器(パルスオキシメーター)の購入、酸素濃縮器の購入など、有事に備える対策を講じた企業も複数あった。また、インド政府は全ての保険会社にコロナ保険導入を義務付けたこともあり、多くの企業が従業員を加入させている。

ワクチン接種については、会社によって全額補助、一部補助、補助なし、と対応が分かれる。ただ、概して従業員はワクチン接種に積極的だ。1回目の接種率が80%を超えた企業も多く、日系企業のワクチン接種率は、インド企業全体の平均に比べてかなり進んでいる。

人権への意識高まるも、インド特有の背景も

近年、世界全体で、サプライチェーンにおける人権への配慮が、企業の持続可能な活動のために欠かせない要件として注目されつつあるが、インドにおける意識はどうか。インドでは、ジャーティ(出自、生まれの意)と呼ばれるカーストを構成する要素があり、ジャーティは世襲的な職業にひもづいて、その数は2,000とも3,000ともいわれている。例えば「清掃」のジャーティに属する人は一生清掃を生業とし、子供のころから働く。インドではこのヒンドゥー社会の考え方が今でも根強いため、欧米的な人権に対する考え方が必ずしも一般的ではない。前述の国内出稼ぎ労働者の数は数億人と言われるが、そのほとんどは低位カーストや貧困層だ。欧米的価値観からすれば、およそ非人間的な待遇で働かされている労働者も相当数、存在する。したがって、インドで人権を語るとき、欧米の基準とは異なる社会的慣習・価値観があることに留意する必要がある。

ただし、経済発展に伴う社会の近代化によって、カーストに関する考え方も変化しつつある中、欧米的な人権意識も広がっており、企業の意識も変わってきている。最近では、企業の社会的責任(CSR)の文脈で、貧困撲滅、女性の社会進出、教育格差の是正に取り組む活動は、インド全体でより活発になっている。進出日系企業からは、本社から、世界標準として児童労働など人権保護については厳しく指導されており、調達マニュアルなどでも人権擁護が明記されている、との声が聞かれた。


注:
国内に5カ所あるジェトロ・インド事務所では2021年7月、製造業、金融、物流、ソフトウェア、スタートアップ企業など10社(デリー首都圏5社、ベンガルール4社、チェンナイ1社)に対し、コロナ禍での人事・労務面での変化と各社によるコロナ対応策についてヒアリングした。また、ムンバイ6社およびアーメダバード9社に簡易アンケートを実施した。本稿は、これらの調査結果に基づき構成されている。
執筆者紹介
ジェトロ・ニューデリー事務所長
村橋 靖之(むらはし やすゆき)
1989年、ジェトロ入構。海外駐在はジェトロ・クアラルンプール事務所所員、ジェトロ・テルアビブ事務所所長、ジェトロ・リヤド事務所所長、ジェトロ・イスタンブール事務所所長を経て2019年7月から現職。

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