特集:変わるアジアの労働・雇用環境と産業界の対応アジア大洋州域内の雇用・労務環境は悪化、企業は中長期的な見直しを模索も(総論)

2021年10月6日

アジア大洋州地域における労働市場や雇用・労務環境は、2010年代を通じて、最低賃金の引き上げや労働関連の法規制改正などで大きく変化した。人材不足や中間管理職・技術者の育成が主要な課題となるなど、各国の進出日系企業の事業活動に影響を与えてきた。さらに、2020年から猛威を振るった新型コロナウイルスにより、各国で失業が増え、産業界は就労者の安全確保、労務・雇用への取り組みなど、日々のオペレーション上の対応に迫られている。本特集では、アジア・オセアニア主要国を対象に、これまでの労働・雇用環境の変化を踏まえつつ、新型コロナ後の変化に焦点をあて、労働・雇用環境と進出企業の対応をみる。本稿はその総論。

新型コロナで悪化する雇用環境

アジア大洋州地域の雇用環境は、新型コロナ流行により大きく影響を受けた。多くの国でロックダウンなどの措置が取られ、企業活動の制限を余儀なくされたことから、各国・地域の就業者の労働時間は減少し、不完全就業者が増加するほか、失業率が高まった。域内主要国の失業率は2020 年 3~6 月に大きく悪化した(図参照)。とくに、フィリピンでは 17.6%と大幅に悪化した。その後は経済・移動制限措置の一部が緩和され、2021年6月には7.7%まで回復したが、コロナ以前と比較するとなお高水準だ。インドネシアでは、毎年2月、8月の失業率データが公表されるが、2021年2月の失業率は6.3%で、2020年8月の7.1%から0.8ポイント改善したものの、コロナ前の水準までは回復していない。その他の主要国でも、2020年第3四半期以降、活動制限の緩和・経済活動の再開で若干の回復傾向にあるものの、コロナ前と比較すると失業率は1~2ポイント程度高い水準で、依然として雇用環境は厳しい。

各国政府は、大型財政出動により新型コロナの経済支援対策の措置を取っている。多くの国で法人税などの減免、企業向け資金繰り支援、中小零細向け特別支援、失業者や社会的弱者向け職業訓練や補助金支給などの措置を取っているが、雇用対策においては、貧困・低所得者層向けが主体である。各国・地域ともに労働市場における本格的な回復には時間を要するものとみられる。

図:アジア大洋州地域の主要国・地域における失業率
2019年9月から3カ月ごとに表示。フィリピンでは、2019年12月まで4%超だったが、2020年3月に18%近くまで急増。同年6月10%まで減少したが、その後も2021年3月まで8%超、6月も6%超と高い値が続いた。マレーシア、シンガポール、ベトナム、タイでは、2020年3月まで、それぞれ約3%、約2%、約2%、約1%だったが、2020年6月に上昇し、その後2021年6月まで、それぞれ、約5%、約3から5%、2%超、約2%となった。インドネシアは2020年2月まで約5%だったが、2020年8月以降6%超となった。インドは2019年に約5%だったが、2020年に約7%になった。なお、インドネシアは2月、8月時点。インドは通年(2019、20年)の値を用いた。

注:インドネシアは2月、8月時点。インドは通年(2019、20年)の値。
出所:各国統計より作成

構造的な雇用・労務面の課題は変わらず

進出日系企業を取り巻く雇用・労務の課題について、ジェトロが 2020 年 9~10 月に進出日系企業を対象に実施した「2020 年度海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)」(以下、ジェトロ調査)の結果より、確認したい。表は、経営上の課題のうち、雇用・労働面について回答結果(複数回答)をまとめたものである。縦方向に、雇用・労働面の課題として 12 の項目を、横方向には調査対象 13カ国(ASEAN、南西アジア)を回答率合計が多い順に並べた。課題の多さが比較できるよう、課題別・国別に、回答割合の合計ポイントも加えている。

項目別に見ると、「従業員の賃金上昇」(648.2 ポイント)が最も高く、「従業員の質」(580.0 ポイント)、「人材(中間管理職)の採用難」(298.1 ポイント)が続く。国別では、マレーシア(338.9ポイント)が最も高く、一般的な労務問題を多く抱えていることが分かる。これに続くのが、インドネシア(313.8ポイント)、ベトナム(295.1 ポイント)、カンボジア(290.5)で、これらの国々では労務問題に苦労している企業が多い。

当該地域における雇用・労務にかかる課題について、過去5年スパンで調査結果を比較すると、労務・人事に関する課題の上位3項目[従業員の賃金上昇、従業員の質、人材(中間管理職) の採用難]は変化がなく、これらは構造的な課題といえそうだ。ただし、いずれの項目についても、回答企業による合計ポイントが下がっており、進出日系企業にとって、課題と感じる程度が過去数年と比較すると落ち着いていることがうかがえる。国・地域別では、5年前に上位にあったミャンマー、ラオスがそれぞれ中位、下位に位置している。

表:ASEAN9カ国と南西アジア4カ国の雇用・労務分野に関する課題(全12項目・複数回答)(%、ポイント)
項目 マレーシア インドネシア ベトナム カンボジア インド ミャンマー バングラデシュ シンガポール スリランカ フィリピン タイ ラオス パキスタン 課題別ポイント (参考)中国
有効回答数 245 642 870 105 323 193 66 586 30 131 642 37 40 861
従業員の賃金上昇 59.2 77.4 65.8 55.2 58.5 38.9 48.5 46.1 40.0 34.4 51.7 35.1 37.5 648.2 63.3
従業員の質 51.8 51.6 38.7 45.7 41.8 49.2 48.5 29.4 40.0 48.1 46.7 46.0 42.5 580.0 39.3
人材(中間管理職) の採用難 18.8 20.4 21.3 37.1 16.4 33.7 33.3 13.8 23.3 23.7 19.5 24.3 12.5 298.1 20.6
人材(技術者) の採用難(製造業のみ) 22.5 14.0 25.2 21.6 12.2 27.3 29.0 17.3 20.0 22.4 18.7 35.3 20.0 285.6 33.3
管理職、現場責任者の現地化が困難 17.6 26.0 22.0 30.5 19.5 27.5 31.8 17.2 13.3 19.1 22.6 24.3 12.5 283.8 18.4
日本人出向役職員(駐在員)のコスト 19.2 27.9 26.6 19.1 37.8 24.9 19.7 27.5 10.0 10.7 21.0 13.5 7.5 265.2 18.7
従業員の定着率 25.3 8.6 32.3 27.6 21.1 23.8 9.1 19.5 23.3 22.9 14.8 10.8 10.0 249.1 22.7
解雇・人員削減に対する規制 29.0 47.0 15.3 12.4 18.0 6.7 12.1 11.8 26.7 28.2 18.4 8.1 10.0 243.7 23.1
人材(一般ワーカー)の採用難(製造業のみ) 34.8 2.0 21.5 10.8 16.3 6.1 6.5 17.3 40.0 6.9 5.3 5.9 5.0 178.2 34.1
日本人出向役職員(駐在員)への査証発給制限 18.8 18.7 9.8 2.9 13.6 8.8 12.1 27.8 20.0 23.7 6.2 2.7 12.5 177.6 19.9
人材(一般スタッフ・事務員)の採用難 13.9 7.0 14.4 21.0 8.7 17.1 7.6 15.2 3.3 16.8 8.4 10.8 10.0 154.1 19.4
外国人労働者の雇用規制 28.2 13.2 2.4 6.7 3.7 1.0 6.1 21.5 3.3 1.5 6.1 2.7 2.5 98.9 1.5
合計 338.9 313.8 295.1 290.5 267.6 264.9 264.3 264.3 263.3 258.3 239.4 219.5 182.5 314.0

注:項目ごとの数値は有効回答数に対する割合(%)、合計値は同割合を足し上げて算出(ポイント)。
出所:ジェトロ、2020年度海外進出日系企業実態調査(アジア・アセアニア編)

昇給率の高騰は緩和傾向

課題の最大項目である「従業員の賃金上昇」について、国・地域別に得票ポイントをみると、インドネシアで77.4%と最も高く、ベトナム(65.8%)、マレーシア(59.2%)、インド(58.5%)、カンボジア(55.2%)、タイ(51.7%)でも5 割を超え、引き続き、進出日系企業の間に共通した課題となっている。また、2020年の進出日系企業における前年比ベースアップ率(見込み平均値)は、パキスタン(8.7%)、ミャンマー(7.0%)、バングラデシュ(6.8%)、ベトナム(6.6%)で高い。2012、2013年ごろには、多くの国・地域で、経済成長・物価上昇の影響や労働市場における人材不足、あるいは労働争議などを背景に賃上げ圧力が高く、昇給率の水準が高かった。しかし、その後、全体的に低下傾向を示しており、さらに2020年には新型コロナウイルスの影響で、労働需給が緩やかになった。こうしたことから、2020年はすべての国で前年比の昇給率は下がった。

進出日系企業は、新型コロナの感染拡大により、事業運営や業績面で過去に類を見ないダメージを受けている。とはいえ、本特集の各国編にあるとおり、各社へのインタビューによれば、新型コロナを理由とした賃金などの雇用条件や就業規則の大幅変更など、目立ったものは確認されなかった。多くの企業では、企業活動の制限や市場消失などの影響を受けつつも、柔軟に対応し、また各社の業績に基づき従業員の賃金改定を行っている。政府側も、法定最低賃金について一定の配慮をみせる。毎年、改定するベトナムやインドネシアでは、2021年の最低賃金決定において、地域や州・県などによって異なるものの、多くは前年から据え置くか上昇幅を抑制させた。新型コロナ感染拡大の影響で、多くの企業が業績を悪化させ、失業率が高まるなか、企業の事業継続性と労働者保護をバランスさせることを優先させたものだ。

ただし、業種によっては、景気減速や市場規模縮小、企業活動の減退といったマイナスの影響を大きく受けている。旅行・観光、航空・運輸、小売・飲食業のほか、製造業でも行動制限、企業活動規制などにより、減産を余儀なくされ稼働率が上がらない企業では、業績が厳しく、解雇や人員整理に関する声も聞こえる。一方、オンラインビジネス、金融・保険、デジタル、医療などの分野では、ITやデジタル人材の不足や給与上昇もみられるなど二極化している。

経営の現地化など合理化・効率化を模索する動きも

新型コロナの感染拡大を受け、進出日系企業における人事・労務管理上の変化やそれに対する企業オペレーション上の対応策はどのようなものか。各企業では、在宅勤務制度の導入、従業員の安全確保・衛生管理、生産ラインや人員配置の見直し、営業活動におけるデジタル技術の導入(オンライン面談)などの対応が取られた。

在宅勤務制度は、各国の行動制限・企業操業の規制などに合わせ、製造業、非製造業を問わず多くの企業で導入された。なかには在宅勤務にかかる電気代・電話料金などのコストを負担するなど、きめ細やかな対応もみられた。また、従業員の安全確保という観点では、感染者が出た場合の対応方針を含むガイドラインを独自で作成し、政府ガイドラインよりも厳しい内容とすることで、従業員の安全確保や感染防止を徹底的に取り組むケースもみられた。そのほか、休業時の給与補填(ほてん)、PCR検査への補助、新型コロナワクチンの接種機会の提供など、企業側が財政面での負担をすることも多い。製造業では、生産ラインなどの人員配置の見直しや効率化、非製造業では、営業活動におけるデジタル技術の活用(オンライン会議)などにより、ソーシャルディスタンスへの配慮を進めている。これらの取り組みは、企業と従業員にとってコスト・時間などの負担になるものだが、進出日系企業は、従業員のニーズや新型コロナへの不安などに対応し、迅速な対応を進めている。

また、中長期的な動きとして、進出日系企業のなかには、新型コロナをきっかけに事業戦略やビジネスモデルの見直しを模索している企業もある。コスト削減や最適配置の観点から、人員削減による組織・体制の変更に踏み切る、あるいは検討する企業も多く、現地職員に加え、日本人駐在員の削減により、経営の合理化・効率化を模索する動きも進展している。例えば、日本人駐在員の交代時に後任を派遣せずに、現地従業員を登用する、複数機能を統合する、現地職員へ権限移譲するなどの措置が取られている。このような日本人駐在員の削減を通じた経営の現地化について、企業からは、「一時的な見直し措置ではなく状況に応じて今後も継続予定」とする声もある。「経営の現地化」にあたっては、これまで以上に社内人材育成や登用・権限移譲など、各社の事情に合わせ高度人材を確保・育成することが重要になっている。

一部の国で外国人の就労条件を厳格化

また、新型コロナによらず、近年、一部の国では、外国人の就労許可・査証の発効要件を厳格化する動きがみられ、進出日系企業に影響を与えている。これは各国において、失業率が高まるなど雇用環境が悪化したことを受け、自国民の労働者保護を目的としたものとみられる。新型コロナで加速する動きもあり、注視が必要だ。

ベトナムでは、2021年2月に労働法の細則規定が施行され、多くの駐在員が利用する「専門家」の労働許可証の申請に際し、大学の学位を厳格に確認されるようになった。地域や申請窓口によって運用の違いはあるものの、学位を証明する書類として、これまで認められていた大学の卒業証明書が受理されない、あるいは大学の専攻とベトナムでの職務の関連性が認められず、申請が進まない事例などが起きている。加えて、同施行により、労働許可証の期限が切れる際には、これまでの更新手続きではなく、新規申請手続きがあらためて必要となったため、時間的余裕を持った申請が必要になった。

シンガポールでも、新型コロナで雇用不安が高まる中、駐在員が主な対象となる外国人幹部・専門職就労査証の発給基準が一段と厳格化された。政府は、外国人の幹部・専門職向け就労査証「エンプロイメント・パス(EP)」の発給基準となる最低基本月給を2020年中に立て続けに2回引き上げた。また、2014年8月からEP申請前に地元人材を対象にした求人バンクへの広告掲載が義務付けられているが、2020年10月からは、広告の掲載期間がそれまでの14日間から28日間に延長された。さらに、求人広告に応募した国民を選ばず、外国人を採用した場合には、その理由の説明を求められるなど厳格に運用している。このように、雇用主に対して、国民の幹部職への登用を求める「シンガポーリアン・コア(国民中心)」の圧力が高まっている。

マレーシアでは、2020年6月以降、自国民の雇用維持に加え、生産現場などで働く外国人労働者の宿舎で新型コロナ感染が発生したこともあり、外国人労働者の新規雇用が凍結された。また、勤続10年超の契約更新も難しくなっている。日系製造業では、地元労働者の採用などに取り組んでいるものの定着率が悪く、労働力不足を課題として抱えている。

世界を見渡すと、アジア大洋州地域の新型コロナ感染拡大は総じて穏やかで、復興スピードが最も期待される地域の1つと見られていたが、2021年半ばごろから急速に感染者数が増加するなど、状況は刻々と変化している。国によって状況が一様ではないが、進出日系企業では、こうした変化や移動・操業に関わる規制などへの対応に迫られるほか、従業員向けの安全確保・衛生管理面、勤務体制の多様化などの観点から、これまで以上に複雑な労務管理が求められている(注)。同地域の経済回復は、ワクチン接種の高まりとともに2022年に本格化すると予測されているなか、経済・市場や競争条件の変化が、労働市場および雇用・労務制度にも影響する可能性があり、引き続き、各国における状況を注視していくことが必要となりそうだ。


注:
労務に関連し、サプライチェーンにおける人権尊重にかかる取り組みも、昨今、重要度が増している。この点、本特集においても、フィリピン、ベトナム、インドからのレポートで取り上げている。本件については、特集「サプライチェーンと人権」の地域分析レポート欄で「アジアのサプライチェーンにおける人権尊重の取り組みと課題」と題した連載を掲載しているので、併せて確認されたい。
執筆者紹介
ジェトロ・シンガポール事務所次長
藤江 秀樹(ふじえ ひでき)
2003年、ジェトロ入構。インドネシア大学での語学研修(2009~2010年)、ジェトロ・ジャカルタ事務所(2010~2015年)、海外調査部アジア大洋州課(2015~2018年)を経て現職。現在、ASEAN地域のマクロ経済・市場・制度調査を担当。編著に「インドネシア経済の基礎知識」(ジェトロ、2014年)、「分業するアジア」(ジェトロ、2016年)がある。