特集:北米イノベーション・エコシステム 注目の8エリアカナダのイノベーション・エコシステム、AIに世界が注目

2019年11月22日

カナダのトロントと約100キロ西に位置する研究都市ウォータールーを結ぶトロント・ウォータールー回廊は、世界で最も急速に成長しているイノベーションハブの1つだ。実際、トロント・ウォータールーは、スタートアップ・ゲノムの調査レポート「グローバル・スタートアップ・エコシステム・レポート2019」で、世界第13位、北米第6位に位置付けられている。この地域では、5,000以上のスタートアップを含む2万を超える企業、約80のアクセラレーターなどの支援機関、90以上の資金提供者がエコシステムを形成している。

MaRS:北米最大級の都市型イノベーションハブ

トロント地域はもともと、自動車を中心とした製造業や金融のほか、約600万人の市場を背景とした小売り・サービス業など多様で強力な産業集積がある。その地にインキュベーターとして2000年にMaRSディスカバリー・ディストリクト(MaRS)が誕生した。MaRSの最大の特徴は、トロントの中心街に位置し、大学・研究機関や病院、金融機関、政府機関など、スタートアップを育てる各方面の関係者との物理的な距離が近いことだ。MaRSは14万平方メートルの敷地を誇り、スタートアップ・スケールアップだけでなく、スポンサー企業やベンチャーキャピタル、各種サービスプロバイダー、再生医療や人工知能(AI)、がん研究センターなどの研究機関が集積し、北米最大級の都市型イノベーションハブとして拡大している。当初は医療科学に焦点を当ててスタートした経緯もあり、入居スタートアップの70%がウェットラボを含む研究室を使用している。現在は対象分野も多様化し、医療のほか、クリーンテック、フィンテック、企業向けソフトウエア、さらには第5世代移動通信システム(5G)、AI、自動運転などプラットフォーム技術についても支援を提供する。


総合病院だった歴史的建造物と近代的なビルの複合施設からなるMaRS(ジェトロ撮影)

カナダのAI研究が開花

2012年に開催されたAIの画像認識性能を競う国際大会で、ジェフリー・ヒントン教授率いるトロント大学のチームが圧倒的な勝利を収めたことで、カナダのAI・深層学習(ディープラーニング)研究が一躍、世界の注目を集めることになった。これは、AI研究の不遇の時代にもカナダ政府の助成の下、地道に研究を続けたヒントン教授と、ヤン・ルカン・ニューヨーク大学教授、ヨシュア・ベンジオ・モントリオール大学教授の3人の功績が大きい。3氏は2019年6月にコンピュータ科学分野のノーベル賞と呼ばれるチューリング賞をそろって受賞したことでも知られる。

カナダでは、こうしたトップ研究者を核として、AIのエコシステムがトロントだけでなく、モントリオールや、強化学習の権威であるリチャード・サットン・アルバータ大学教授のいるエドモントンに形成されている。これら地域では、カナダ政府の掲げる「汎カナダAI戦略」により、合計1億2,500万カナダ・ドル(約103億円、Cドル、1Cドル=約82円)の研究資金の助成を受けたベクター研究所(トロント)とモントリオール学習アルゴリズム研究所(Mila、モントリオール)、アルバータ・マシン・インテリジェンス研究所(Amii、エドモントン)が産学連携を含めたAIエコシステムのイノベーションハブとしての役目を果たしている。

AIには企業も注目

こうしたカナダのAI研究の興隆に着目した企業の動きも活発だ。ウーバー・テクノロジーズは2017年、同社の自動運転開発部門アドバンスド・テクノロジーズ・グループ(ATG)の研究所をトロントに立ち上げた。また、ベクター研究所に500万Cドルの投資を行った。グーグルも同研究所のAI人材開発イニシアチブに500万Cドルを投資しており、Milaにも450万Cドルを投資している。2018年には韓国勢のサムスン電子とLGが相次いでMaRSにAI研究所を開設した。日系企業では、富士通研究所がトロント大学、三菱電機がアルバータ大学で共同研究を行うほか、モントリオールではデンソーが2019年1月にAIの研究開発拠点を設置、同年4月に日立がMila と共同研究を開始している。富士通は2018年11月、バンクーバーにAIのグローバルビジネス展開を担う新会社の富士通インテリジェンス・テクノロジーを設立した。

AI関連のスタートアップでは、ベンジオ教授が立ち上げたエレメントAIが急成長している。2016年の設立時にはAIソフトウエアを販売する会社だったが、AI導入の準備ができていない企業に向けたアドバイザリー・サービスや調査にも業務を拡大し、現在では総合的なAIソリューションを提供する。2017年には、AIスタートアップのシリーズAラウンドとしては過去最高額となる1億200万ドルの資金調達に成功し、2019年9月にはさらに1億5,140万ドルの資金調達を発表している。同社はモントリオール本社に加え、トロント、ロンドン、ソウル、シンガポールに拠点を構え、500人以上のスタッフを抱える。

寛容な移民政策と高度技術系人材の集積

カナダは、移民の比率が人口の20%を超える多様な社会であることも特徴だ。トロントやバンクーバーなど都市部では海外生まれの人口が4割台に上る。多様な民族的バックグラウンドがあるうえ、LGBT(セクシャル・マイノリティー)に寛容で、世界から優秀な人材を集めることに成功している。スタートアップビザ(永住権)は、革新的な技術を持つ起業家向けのプログラムで、指定された機関や投資家から資金調達に成功していることや、言語、資金などの条件を満たせば申請できる。また申請者については、一時就労許可が最短10営業日で発給されるというスピード感だ。

また、米商業不動産サービスCBREの「2019スコアリング・テック・タレント」調査の技術系人材市場ランキングで、トロントは米国とカナダの50都市中、第3位となっている(表1参照)。この調査は、高度技術系人材を引きつけ、成長させる能力に基づいて各都市を評価したもので、特にトロントでは、技術系人材の雇用が2013~2018年にかけて54%増加し、技術系人材市場が50都市で最も急速に成長していることが示されている。

表1:北米の技術系人材市場ランキング
順位 都市
1 サンフランシスコ・ベイエリア(米カリフォルニア州)
2 シアトル(米ワシントン州)
3 トロント(カナダ・オンタリオ州)
4 ワシントンD.C.(米)
5 ニューヨーク(米ニューヨーク州)
6 オースティン(米テキサス州)
7 ボストン(米マサチューセッツ州)
8 デンバー(米コロラド州)
9 アトランタ(米ジョージア州)
10 ローリー・ダーラム(米ノースカロライナ州)

出所:「2019スコアリング・テック・タレント」(CBRE)

また、同調査によると、オタワ、トロント、バンクーバー、モントリオールのカナダ4都市は、全50都市の中で賃料と給与を合わせた事業コストが最も低い。トロントの年間コストは、コストが最も高いサンフランシスコ・ベイエリアと比べ、約半分となっている。事業者にとってカナダ4都市は、人材の質とコストの両面で価値の高い結果を出しているといえよう。

表2:都市別年間コストの比較
順位 都市名 賃料平均
(75,000平方フィート)
技術系
職賃金
(250名)
非技術系
職賃金
(211名)
管理職
賃金
(39名)
年間コスト
合計
1 サンフランシスコ・ベイエリア 5,166,000 32,429,425 14,353,705 7,771,843 59,720,973
2 ニューヨーク 5,915,250 28,375,097 13,151,001 7,820,415 55,261,762
3 ワシントンD.C. 3,166,500 28,183,721 13,575,235 6,765,330 51,690,786
4 シアトル 2,814,750 29,451,440 12,230,354 6,423,300 50,919,844
47 オタワ 1,857,490 16,930,015 10,163,436 3,355,114 32,306,055
48 トロント 2,086,131 15,788,407 9,316,772 3,371,392 30,562,702
49 バンクーバー 2,504,631 15,456,045 8,960,470 2,868,031 29,789,176
50 モントリオール 1,822,760 14,593,204 8,986,815 3,188,579 28,591,358

注:技術系企業(従業員500人、事務所面積75,000平方フィート)の場合を想定。
出所:「2019スコアリング・テック・タレント」(CBRE)

ウォータールー大学のCO-OPプログラム

人材の質という点で、カナダの人材育成で特筆すべき例を2つ挙げる。1つは、数学・コンピュータ科学で有名なウォータールー大学のCO-OP(コーオプ)プログラムだ。これは、大学での学究と企業でのインターンシップを学期ごとに交互に繰り返しながら5年で卒業するプログラムで、インターンシップ先には海外の企業も含まれ、現在30人が日本企業で働いているという。同大学工学部の学生はCO-OPが必修で、このプログラムは企業にとって即戦力となる人材を輩出するため国内外から高く評価されている。ウォータールー大学のシステムデザイン工学専攻の卒業生の60%がシリコンバレーやニューヨークなど米国に就職しているという調査結果もある(「グローブ・アンド・メール」紙電子版2018年3月2日)。


ウォータールー大学工学部(左)と同大学のインキュベーション施設「ベロシティー(Velocity)」
(ジェトロ撮影)

研究型インターンシップ・プログラム「アクセラレート」

もう1つの例が、カナダ政府が出資する非営利団体マイタックス(Mitacs)の研究型インターンシップ・プログラム「アクセラレート」だ。学生を4~6カ月、企業の研究プロジェクトに従事させるプログラムが含まれ、学生の人件費を含めた研究費用総額1万5,000Cドルを企業とマイタックスが折半する。大型のプロジェクトに取り組みたい場合は、複数単位を組み合わせて規模を拡張したり、期間を延長したりすることも可能だ。学生にとっては企業の中で自分の専門分野の研究ができ、企業にとっては研究費用の半額をカナダ政府の資金で賄いながら、自社の研究開発テーマに合致する学生や研究者の知見を活用できる。もとはカナダ企業向けのプログラムだが、最近はマイタックスが拠点を持つ国(日本も対象に含まれる)での実施も可能になった。

研究をリードする大学やそこから毎年輩出される優秀で多様な人材、低いコスト、企業との連携、そして政府の支援。こうした多くの要素がカナダのエコシステムを形成する。しかし、先行している複数の例を除いて、日本からの進出企業はまだ少ないのが現状だ。カナダは、日系企業にとって開拓の余地が大きい注目すべき国である。

執筆者紹介
ジェトロ・トロント事務所 次長
江﨑 江里子(えざき えりこ)
国際交流部、貿易投資相談センター、総務部等を経て、2016年8月より現職。