世界のクリーン水素プロジェクトの現状と課題ドイツ・ザールラント州のグリーン鉄鋼と水素インフラプロジェクト

2025年3月28日

ドイツ連邦政府が2023年7月に改定した国家水素戦略は、(1)水素の確保(作る)、(2)水素インフラの整備(運ぶ)、(3)水素の利用用途の確立(使う)、の3つを柱としている(2023年10月17日付地域・分析レポート参照)。(2)については、2024年10月に政府が「水素コアネットワーク外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます」を承認し、2032年までに国内に全長9,040キロメートル(km)の水素ネットワークを整備するという目標を掲げた。

ドイツ国内には水素の生産・輸送・利用に関するプロジェクトが進む地域がすでにいくつか存在する。中でもザールラント州は、州政府傘下の水素庁(H2 Saar)が活動し、民間レベルでも上記(1)(2)(3)の全てのプロジェクトが存在しているため、水素エコシステムが形成されつつある地域として注目される。本稿では、ザールラント州の水素関連プロジェクトおよび同州水素庁の活動について、現地での取材に基づき解説する(取材日:2025年2月19日、注1)。

ザールラント州と鉄鋼産業

ザールラント州はドイツ南西部に位置し、フランスおよびルクセンブルクと国境を接する。人口は約100万で、ドイツの16の連邦州の中では、面積・人口ともに小さな規模だ。17世紀以降、フランスとドイツが交互に統治し、1957年にドイツ連邦共和国(当時:西ドイツ)の10番目の州としてドイツに再統合された(経済的なドイツへの再統合は1959年)が、現在でもフランスとの結びつきが強い。

同地は、鉄鋼の原料でもある石炭の産地で、かつては石炭採掘が盛んだった。現在は、15世紀から続いてきた鉄鋼産業が最大の産業となっている。その品質や加工技術の高さで知られており、州内には鉄鋼を原料とする金属加工業や自動車関連の企業も存在する。それら産業は、地元の雇用を支えてきた一方で、大量の二酸化炭素(CO2)を排出し、世界的なカーボンニュートラル推進の流れを受けて、脱炭素化が求められる分野でもある。

2050年までに気候中立を達成するという目標を掲げるEUが、2005年に導入したEU排出量取引制度(EU ETS)(2024年5月27日付地域・分析レポート参照)も、同州の鉄鋼産業の脱炭素化を加速する要素となっている。鉄鋼産業はエネルギー集約産業(注2)として、同制度の導入当初から対象となり、年次の排出枠を超えた分の費用負担が求められている。加えて、2026年にEUで炭素国境調整メカニズム(CBAM)が本格適用され、対象セクターの輸入品に対して、温室効果ガスの排出量に基づいた炭素価格の支払いが義務付けられる予定だ。これに伴い、CBAM対象セクターである鉄鋼のEU ETSの無償排出割当は同年以降、段階的に削減され、2034年には100%廃止になる予定だ。以上の流れから、CO2を排出しないグリーンスチール(注3)の製造を進めることは、ザールラント州の鉄鋼産業にとっては、ビジネス上のインセンティブであり、喫緊の課題となってきた。

使う:グリーンスチール・プロジェクト「Power4Steel」

ザールラント州では、水素の利用およびグリーンスチール生産、鉄スクラップのリサイクルにフォーカスするプロジェクト「Power4Steel外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます」が進められている。主体となるのは、地元企業のシュタール・ホールディング・ザール(SHS、注4)だ。同プロジェクトは2段階で計画されており、第1段階として、同州のディリンゲン(Dillingen)に水素を活用した直接還元鉄(DRI)プラントの建設、ディリンゲンとフェルクリンゲン(Völklingen)に1基ずつの電気アーク炉(EAF)の建設が進められている。現時点で、2028年から年間350万トンのグリーンスチールの生産を予定している。2030年までに、鉄の生産量の70%を炭素排出量の少ない方法に転換することが目標だ。第2段階として、3基目のEAFを建設し、2045年までのカーボンニュートラル達成を目指している。ドイツ連邦政府とザールラント州政府は2023年12月、プロジェクトの投資総額46億ユーロのうち26億ユーロに対し、補助金の交付を決定した。

ザールラント水素庁の役割

水素クラスターとしてのザールラント州の取り組みに大きな役割を果たすのが、州政府が2023年5月に立ち上げたザールラント水素庁(H2 Saar)外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますだ。最高経営責任者(CEO)のベッティナ・ヒュプシェン博士を筆頭に、6人の少数精鋭チームで活動する。業務内容は、地域内の水素バリューチェーンに関連する企業同士のネットワーキング支援、市場分析、企業の水素戦略の策定支援、企業の資金調達支援、市民向けの水素市場や水素技術に関する情報提供など、多岐にわたる。

前述のグリーンスチール製造プロジェクトについて、同庁の担当者は、当初2027年に生産開始予定だったが、1年延期して現在は2028年を予定しているとし、(国内に最初のインフラとなる「水素コアネットワーク」が整備される)2032年には水素グリッド(配管網)につなげる野心的な計画をすすめているとコメントした。


(左から)ザールラント水素庁のアンドレス・バルガー・プロジェクト・マネージャー、
ヒュプシェンCEO、バルデマル・ビット・プロジェクト・マネージャー(ジェトロ撮影)

地域で高まる水素需要

ザールラント水素庁は2024年、主に製造業とエネルギー業界を対象とした水素の需要分析を行った。水素の需要量には、価格のほか、規制環境や資金調達スキームなど、様々な要因が影響を与えるが、現在計画中のプロジェクトが全て実現すれば、ザールラント州の水素需要は2036年ごろには年間35万トンに達するという調査結果になった。その大部分は、同州の主要産業である鉄鋼産業からの需要だが、エネルギー産業の水素需要も大きくなる見込みだという。エネルギー産業は、将来的な供給の安全性確保のために、水素対応のガス火力発電所を建設するという戦略を立てている。発電所以外にも、現在、天然ガスで燃焼している加熱炉を水素または電気に置き換えるという計画があり、それらが将来的な水素の需要につながるという。

運ぶ:国境を越えてつながる水素インフラプロジェクト

ザールラント州では、水素インフラプロジェクト「mosaHYc」外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます(読み:モザイク、注5)がフランス、ドイツ、ルクセンブルクの共同プロジェクトとして進められている。約60キロメートル(km)の既存の天然ガス用パイプライン(一部は使用停止中)を水素パイプラインに転換するとともに、約30kmの水素パイプラインを新設し、総延長で90kmの水素用インフラを構築するという画期的なプロジェクトだ。既存のパイプラインは、フェルクリンゲン(ドイツ側)~カルラン(Carling、フランス側)~ブゾンビル(Bouzonville、フランス側)~ペルル(Perl、ドイツ側)間にあり、新設のパイプラインはブゾンビル~ディリンゲン間に敷設される予定だ(図参照)。

図:mosaHYcプロジェクトの実施概要

図:PDF版を見るPDFファイル(236KB)

ザールラント州の水素インフラプロジェクト「mosaHYc」(モザイク)の実施場所を含むイメージ図。緑色の線がパイプライン。既存のパイプラインは、ドイツ側のフェルクリンゲン、フランス側のカルラン、フランス側のブゾンビル、ドイツ側のペルルを繋いでいる。新設のパイプラインはブゾンビルとディリンゲンの間に建設される予定。ザールラント州のペルルやディリンゲン周辺には製鉄所がある。同州のフェルクリンゲンやフランス側のカルランにも電解層プロジェクトがあり、電解槽で作られたグリーン水素はパイプラインを通ってドイツ側に運ばれ、ザールラント州で進むグリーンスチール製造に利用されることになりそうだ。  

出所:H2 Saar提供資料を基にジェトロ作成

同プロジェクトには、エネルギーインフラ企業としてクレオス・ドイツ(Creos Deutschland)とフランスのナトラン(NaTran、注6)のほか、クレオスの親会社でルクセンブルクのエネルギー大手エンセボ(Encevo、注7)の計3社が主要サプライヤーとして携わっている。クレオス・ドイツは、ザールラント州および隣接するラインラント=プファルツ州で約1,600kmに及ぶガス供給網と約400kmの電力供給網を運営し、200万人の住民をカバーする地元企業だ。この水素パイプラインは、EUの「欧州共通利益に適合する重要プロジェクト(IPCEI)」として国家の資金補助の承認を受けている(2024年3月6日付ビジネス短信参照)。鉄鋼産業の需要増加を受け、2027年の稼働を予定している。

作る:グリーン水素製造プロジェクト

グリーン水素(注8)製造プロジェクトとしては、フォルクリンゲンにおいてエネルギー企業アイコニ―(Iqony)が携わる電解槽プロジェクト「HydroHub Fenne」がある。

投資総額1億5,000万ユーロの同プロジェクトは、2024年2月にIPCEIに認定され、ドイツ連邦政府およびザールラント州政府による資金提供が決定している。2027年以降、年間最大8,200トンのグリーン水素の生産を開始する予定だ。

また、フランスのエネルギー会社ライフ(Lhyfe)が2023年7月、ザールラント州のペルルにおいて、70メガワット(MW)のグリーン水素製造施設の建設計画について発表した。2027年前半に建設を開始し、1日当たり最大30トンのグリーン水素をmosaHYcのパイプラインに供給予定としている。

フランス側のカルランには、フランス企業とドイツ企業による大規模な電解槽プロジェクト「CarlHYng」があり、mosaHYcと同年の2027年を稼働予定としている。電解槽で作られたグリーン水素はパイプラインを通ってドイツ側に運ばれ、ザールラント州のグリーンスチール製造に利用されることになりそうだ。

H2 Saarによると、ザールラント州における今後のグリーン水素の需要量は、現地での生産量を上回る見込みだが、同州が水素コアネットワークに接続される2032年以降は、ネットワークを経由した輸入によって需要を満たすことができるとみている。

コスト競争力と規制の簡素化が課題

ここまで見てきたように、ザールラント州には、ドイツ政府が水素戦略の柱として掲げる、水素を(1)作る、(2)運ぶ、(3)使う、の全てのプロジェクトが進みつつある。今回の取材対象者は、日本を含む外国企業からの投資や現地企業との協業にも、期待も寄せていた。

今後の水素プロジェクトの進展には課題もある。

1つは、グリーン水素生産におけるコストの高さだ。例えば、原子力発電所を持つフランスより、原発を廃止したドイツはエネルギー価格が高い。また、現在のドイツの規制では、風力や太陽光などの再生可能エネルギー(再エネ)電力に由来するグリーン水素のみが認められており、化石燃料由来で比較的低コストのブルー水素などは認められないという規制上の背景もある。クレオス・ドイツの担当者は、ドイツはEUの目標より5年早い2045年の気候中立を目標としており、その達成のためには水素の色についてはこだわり過ぎるべきでない、とグリッドオペレーターとしての見解を述べた。欧州では、クリーン水素の定義についても議論があり、フランスは、原子力由来の水素(ピンク水素)も「クリーン水素」として認められるよう、EUに働きかけている。

また、欧州やドイツの規制枠組みの複雑さや資金調達の難しさも課題である。クレオス・ドイツは、EUやドイツ国内で補助金が、グリーン水素にしか適用されない点や、補助金申請、契約、許認可などに関するガイドラインが非常に複雑である点を課題として指摘した。資金調達に関しては、財源がドイツ政府であっても、欧州委員会の認可を必要としたことから、全ての手続きを終えるのに1年ほどかかった経験に言及した。


注1:
ザールラント水素庁(H2 Saar)および「mosaHYc」プロジェクトのサプライヤーであるクレオス・ドイツ、エンセボの関係者に取材を行った。
注2:
エネルギー集約型産業とは、単位当たりの経済活動に大量のエネルギー量を要し、多くのCO2(二酸化炭素)を排出する産業のこと。EU ETSでは鉄鋼のほか、製油、金属、アルミニウム、セメント、石炭、ガラスなどの産業施設で排出されるCO2が対象となっている。
注3:
製造工程でCO2排出のない、またはほとんどない方法で製造された鉄。
注4:
シュタール・ホールディング・ザール(Stahl-Holding-Saar、SHS)は、2010年にザールラント州の鉄鋼会社ディリンジャー(Dillinger)とザールシュタール(Saarstahl)の経営持ち株会社として設立された。合計1万4,000人の従業員を持つ。
注5:
mosaHYcは、Moselle Saar Hydrogen Conversionの略。フランスのモーゼル(Moselle)地方とドイツのザールラント州(Saar)の水素変換(Hydrogen Conversion)。
注6:
同社は、2025年1月にフランスのガス輸送システム会社GRTガスからナトランに名称変更し、再生可能で低炭素なガス、水素、CO2の輸送インフラに注力するとした。
注7:
エンセボ・グループは、グリッド、エネルギー・マネジメント、エネルギーの輸出・販売、再エネ、水素などの分野で、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、ドイツをカバーしている。
注8:
グリーン水素とは、電解槽により、再エネ由来の電力で水を電気分解して製造し、CO2を排出しない水素。
執筆者紹介
ジェトロ調査部欧州課 課長代理
森 友梨(もり ゆり)
在エストニア日本国大使館(専門調査員)などを経て、2020年1月にジェトロ入構。イノベーション・知的財産部イノベーション促進課を経て、2022年6月から現部署に所属。