アジア大洋州地域の人材確保・賃金高騰の現状と対応人件費高騰や雇用確保、人材グローバル化の壁(シンガポール)

2024年3月29日

在シンガポール日系企業にとって、人件費の上昇や外国人就労査証の発給基準の厳格化、高い離職率など、人材に係わる問題が最大の経営課題だ。中には地元人材の幹部への育成を通じて、長期的な目線で人材のグローバル化に取り組む企業もある。しかし、人材のグローバル化を進めるに当たっては、立ちはだかる壁は高い。

人件費、インフレで一段と上昇加速

シンガポール人材省の労働力統計(2024年1月31日発表)によると、フルタイムで働く国民(永住権者を含む)の2023年6月の総月給は、中央値で5,197シンガポール・ドル(約58万2,000円、Sドル、1Sドル=約112円、注)と、前年比2.5%上昇した。このうち大卒以上の国民の総月給は中央値で8,190Sドルと、前年と比べて横ばいだが、国民平均と比べて一段と高い。2023年に賃金の伸び幅は縮小したものの、総月給は2013年から2023年の間、平均3.4%上昇を続けている。特に2022年には、新型コロナウイルス禍明けで人材の流動性が高まり、雇用が一段とタイトとなっただけでなく、消費者物価指数が前年比6.1%へと急騰するなど、インフレの加速により、総月給が8.3%上昇した(図1参照)。

図1:フルタイムで働く国民(永住権者含む)の総月給の中央値と
消費者物価指数(CPI)の推移(単位:Sドル、%)
2013年の国民の総月給は3705シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は6525シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は2.4%。 2014年の国民の総月給は3770シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は6800シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は1%。 2015年の国民の総月給は3949シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は6906シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は-0.5%。 2016年の国民の総月給は4056シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7000シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は-0.5%。 2017年の国民の総月給は4232シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7263シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は0.6%。 2018年の国民の総月給は4437シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7450シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は0.4%。 2019年の国民の総月給は4563シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7605シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は0.6%。 2020年の国民の総月給は4534シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7434シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は-0.2%。 20​21年の国民の総月給は4680シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は7351シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は2.3%。 2022年の国民の総月給は5070シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は8190シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は6.1%。 2023年の国民の総月給は5197シンガポールドル、国民の大卒者の総月給は8190シンガポールドル、消費者物価指数(CPI)は4.8%。

注:雇用主負担の中央積立基金(CPF)を含む各年の6月時点の総月給(名目)の中央値。
出所:人材省「2023年シンガポールの労働力レポート」(2024年1月31日発表)、統計庁

在シンガポール日系企業が抱える経営課題として、人材に係わる課題が上位を占める。ジェトロの「2023年度海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)」(以下、日系企業調査)によると、シンガポールの投資環境面のリスクとして最も多かったのが「人件費の高騰」(88.9%)だった。次いで、2位が「土地/事務所スペースの不足、地価/賃料の上昇」(63.3%)、3位「ビザ・就労許可取得の困難さ・煩雑さ」(54.3%)、4位「従業員の離職率の高さ」(40.2%)、5位「労働力の不足・人材採用難(一般ワーカー、スタッフと専門職・技術力、中間管理職)」(30.9%)が続いた。(有効回答398社、複数回答、調査期間:2023年8月21日~9月20日)。

就労査証発給基準の厳格化でも、日系企業の8割が移転せず

国民の賃金上昇に呼応して、外国人の幹部・専門職向けの就労査証「エンプロイメント・パス(EP)」と、中技能向けの「Sパス」の発給基準となる最低月給も近年、引き上げが続いている(2020年11月2日付地域・分析レポート参照)。EPの発給基準となる最低基本月給は、2011年6月に2,500Sドルだったのが、2022年9月から5,000Sドル(金融サービス分野は5,500Sドル)へと、段階的に2倍に引き上げられた。Sパスの最低基本月給も、2011年6月の1,800Sドルから、2022年9月から3,000Sドル(金融サービス分野は3,500Sドル)へと引き上げられている。さらに、2023年9月から、EPについて新しい審査ポイントシステム「補完的評価フレームワーク(COMPASS)」の運用が始まった(2023年4月4日付ビジネス短信参照)。

EPの最低基本月給は2025年1月から、5,600Sドル(金融サービス分野は6,200Sドル)へと一段と引き上げられる(2024年3月11日付ビジネス短信参照)。ローレンス・ウォン財務相は2022年2月、EPの給与について現地の幹部・専門職の上位3分の1、Sパスは準専門職と技術者の上位3分の1に設定すると述べており、EPとSパスの最低基本月給の上昇が今後も続く見通しだ(2022年2月25日付ビジネス短信参照)。日系企業の中には、円安の進行で日本人駐在員のSドル換算の給与が減ってしまうという問題を指摘する声がある。上掲の日系企業調査で、非製造業A社は「急激な円安により、査証申請の際に記入する(Sドル建ての)給与が目減りする事態が発生している」と述べた。

ただ、在シンガポール日系企業の大半は現段階では、就労査証の発給基準厳格化を理由にした撤退を検討していない。83.9%の日系企業が国外への拠点移転について「検討していない、または今後も検討予定はない」と回答した(有効回答:373社)。

在宅勤務や昇給、社内旅行実施などで人材確保

しかし、シンガポールでの事業継続や拡大に必要な人材の採用は、必ずしも容易ではない。2023年通年の失業率は1.9%(速報値)と、国内雇用市場が極めてタイトな状況にある。日系企業調査によると、在シンガポール日系企業の55.6%が人材不足の課題に直面している(有効回答:390社)。職種別では、専門職種(法務、経理、エンジニアなど専門技能を必要とする職種)や、プログラマーなどIT人材、工場作業員、一般管理職(マネジャーなど)で、人材不足の深刻度が高い。特に専門職種では、「やや深刻」と「とても深刻」と答えた割合は75%を超えた(図2参照)。

図2:在シンガポールの日系企業の職種別人材不足の深刻度(単位:%)
上級管理職(ディレクター)(141)について深刻ではないの割合は34%、あまり深刻ではないの割合は25.5%、やや深刻の割合は24.1%、とても深刻の割合は16.3%。 一般管理職(マネジャーなど)(186)について深刻ではないの割合は11.3%、あまり深刻ではないの割合は23.7%、やや深刻の割合は47.8%、とても深刻の割合は17.2%。 一般事務職(188)について深刻ではないの割合は17%、あまり深刻ではないの割合は29.8%、やや深刻の割合は41.5%、とても深刻の割合は11.7%。 工場作業員(83)について深刻ではないの割合は18.1%、あまり深刻ではないの割合は16.9%、やや深刻の割合は30.1%、とても深刻の割合は34.9%。 プログラマーなどのIT人材(105)について深刻ではないの割合は13.3%、あまり深刻ではないの割合は21%、やや深刻の割合は36.2%、とても深刻の割合は29.5%。 専門職種(法務、経理、エンジニアなど専門技能を必要とする職種)(158)について深刻ではないの割合は4.4%、あまり深刻ではないの割合は20.3%、やや深刻の割合は43%、とても深刻の割合は32.3%。 その他(委託を含む運転手・建設関係、宅配関連など)について深刻ではないの割合は41.2%、あまり深刻ではないの割合は15.5%、やや深刻の割合は21.6%、とても深刻の割合は21.6%。

注:()内の数字は有効回答数を表す。
出所:2023年度海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)

人材の採用や引き留め(リテンション)のため、日系各社はさまざまな取り組みを行っている。同調査で各社が取り組んでいる具体策を聞いたところ、回答日系企業の98社のうち、在宅勤務やハイブリッド勤務を行っているとした企業は30社で最も多かった。次いで、29社が給与引き上げやボーナス支給と答えた(自由記述)。このほか、福利厚生の改善、社内旅行やイベントの開催、社員との密接なコミュニケーションなどの取り組みが挙がった。さらに、回答の中には、離職率の高い同国の現状を受けて、「(人材の)定着ではなく、採用後1~2年で教育、3~4年で自立・成果を得られる体制にするよう工夫中」(非製造業B社)との意見もあった。

人材のグローバル化に求められる本社の国際化対応

一方、日系企業の中には、地元大学の新卒者の採用や幹部候補の育成に長期的な目線で取り組む企業もある。製造業C社の場合、ASEAN域内の有名大学の新卒者の採用と、幹部候補となる人材を選抜して育成する取り組みを2013年から進めている。その成果について、同社の人事部門の幹部は「人材のレベルはこの10年で確実に向上した。ただ、その人材を生かすポジションを増やす必要がある」と語った。幹部候補となる地元人材を定着させるには、その人の能力やキャリアパスを支える職位を確保する必要があるという。

1970年代にシンガポールに進出した製造業D社の幹部は「海外の売り上げ比率が高まっていることから、人材戦略もグローバルへとシフトしていく必要がある」と語る。同国に統括拠点を置く製造業E社も「ASEAN地域の課題は脱日本人経営だ。これまでの日本人中心の体制を変えようとしている」と述べた。一方、人材のグローバル化に向けての課題もある。同様に同国に統括拠点を置く非製造業F社は「(本社側の言語対応の問題で)英語の情報を入手しても、消化ができない。各国の拠点がグローバル化すると、本社もグローバル化する必要がある」と指摘する。現場での人材のグローバル化だけでなく、その人材育成を支える海外の現場と本社の社内体制の構築に向けた模索が続いている。


注:
雇用主が負担する中央積立基金(CPF)を含む総月給。
執筆者紹介
ジェトロ・シンガポール事務所 調査担当
本田 智津絵(ほんだ ちづえ)
総合流通グループ、通信社を経て、2007年にジェトロ・シンガポール事務所入構。共同著書に『マレーシア語辞典』(2007年)、『シンガポールを知るための65章』(2013年)、『シンガポール謎解き散歩』(2014年)がある。