特集:ロシア・デジタル経済政策とスタートアップ生態系総論:デジタル化を通じての経済構造転換を図る
スタートアップの育成が成否のカギに

2019年6月19日

ロシア政府は今、経済構造の大転換に取り組んでいる。その目的とするところは、石油、天然ガスなどの資源開発に依存する経済構造からの脱却や、いまだに多く残る単一産業都市(モノゴロド、注1)の変革にある。そのための取り組みの1つとして打ち出されたのが「デジタル経済化」である。これによりロシア政府は、産業振興と生産性の向上、また技術を活用した社会インフラの整備や生活の質の向上を図り、ロシアの社会・経済構造の変革につなげようとしている。

このような流れの中、小規模ながらも優れた技術力を持つスタートアップがロシアでも育ちつつある。ロシアは元々、ソ連時代の科学技術開発の流れをくむ技術大国である。現在でも、独自の発想や発明で、ユニークな技術や製品を生み出す企業は少なくない。ロシアの産業界がそれらの活力を取り込むことができれば、ロシア経済の新たな方向性が見えてこよう。日本企業にとっては、オープンイノベーションの観点から、ロシアのスタートアップとの協業を考えることで、課題解決のための新たな発見や新規ビジネスにつながる可能性が見えてくる。

「現代化」から「デジタル経済」へ

今に続くロシアの産業構造改革の源流は、2008年のメドベージェフ大統領誕生にさかのぼる。同大統領は2009年11月の大統領年次教書演説で、「現代化」という言葉を使い、ロシアの経済・産業・社会構造の変革の必要性を説いた。メドベージェフ大統領は、医薬品、省エネ、原子力、航空宇宙・通信、ITの5つを重点分野とし、ロシアの経済・社会の現代化には技術の発展が不可欠と強調した。

現代化の方向性、あるいはロシアの科学・技術発展に関する政策の輪郭が見え始めたのは、第3期プーチン政権も半ばを過ぎた2014年以降になる。2014年1月、ロシア政府は「2030年までのロシア連邦の科学・技術発展予測」を発表。世界的に開発競争が進むIT、バイオ、ナノテクなど7分野を取り上げ、中長期的な発展予測とロシアへの影響についての分析を行った。その後も、2016年後半から2017年前半にかけて、中長期的な情報化社会戦略、科学技術発展戦略などを次々と策定。課題の洗い出しと対策、将来的な発展のための目標を打ち出していった。

これらの一連の政策文書の策定と並行して、ロシア政府は2016年4月、「国家技術イニシアチブ(NTI)」(注2)を打ち出した。そこでは、ロシア政府が科学技術分野で優先的に取り組む方向性と国家予算の拠出を含む具体的な対応策が示されている。分野ごとの実行計画(ロードマップ)は2016年6月以降順次策定され、2018年4月までに一応の完成を見た。

これらの流れの中で、2018年12月、プーチン大統領は年次教書演説の中で初めて「デジタル経済化」に本格的に言及した。ロシア政府として改めて科学技術の発展、およびそれらを通じた産業および経済全体の効率化および産業面をはじめとする安全保障の確立を目指す姿勢を鮮明にした。

「行動計画」の中に新たな商機が

これらを経て2017年7月、ロシア政府は政府指示第1632-r号により、デジタル経済政策の実務的なよりどころとなる「国家プログラム『ロシア連邦のデジタル経済』」を策定した。ロシア政府は同プログラムを通じ、生産活動でのデータ活用やハイテク関連ビジネス創出のための条件づくりを進めるとしている。同プログラムでは産官学の関係機関の連携を重視し、これにより「国家的企業」と称する、世界的に活躍できる企業を10社以上創設するという野心的なものでもある。対象となる分野は参考のとおりで、政府は将来的な対象分野の見直しや追加も視野に入れている。ロシア政府は、同プログラムの実現を通じて保健分野の拡充、都市インフラの整備・発展、行政分野での電子化などを進めていく狙いだ。

参考:デジタル経済プログラムの概要

対象分野
  • ビッグデータ
  • ニューロ関連技術、人工知能(AI)
  • ブロックチェーン
  • 量子技術
  • 新製造技術
  • 工業インターネット(IoT)
  • ロボット技術
  • 無線通信技術
  • 仮想現実・拡張現実(VR・AR)

出所:連邦政府指示第1632-r号「国家プログラム『ロシア連邦のデジタル経済』」(2017年7月28日付)

デジタル経済発展プログラムでは、デジタル経済推進のための重点対象分野として、(1)法基盤整備、(2)人材・教育、(3)研究範囲と対象製品の特定、(4)情報インフラ整備、(5)情報セキュリティーの構築を挙げている。2018年1月から2月にかけて、各分野における詳細な行動計画(ロードマップ)が公表された(詳細は2018年1月26日付ビジネス短信参照)。そこでは、分野ごとに差はあるものの、2019年から2020年にかけて目指すべきゴール、関係機関とそれぞれの分担などが定められた。

現時点で最新の関連政策文書は、2018年12月24日に大統領付属戦略発展・国家プロジェクト評議会で承認された「国家プログラム『ロシア連邦のデジタル経済』のパスポート」(注3)である。これは「デジタル経済発展プログラム」を基礎とし、対象分野および実施項目・期限の一部変更、予算の再策定を行ったものである(表参照)。

表:デジタル経済関連国家プログラムにおける重点対象分野と予算額

デジタル経済発展プログラム
項目名 予算額
(2018~2020年)
(億ルーブル)
法基盤整備 2.8
人材・教育 N.A.
研究範囲と対象製品の特定 501.7
情報インフラ整備 4,365.6
情報セキュリティー 340.4
デジタル経済国家プログラム・パスポート
項目名 予算額
(2018~2024年)
(億ルーブル)
デジタル空間の法規制 169.7
人材育成 1,430.9
デジタル関連技術 4,518.1
情報インフラ整備 7,724.0
情報セキュリティー 302.0
国家管理のデジタル化 2,357.1

出所:生活及び企業活動向上のためのデジタル技術活用政府委員会議事録(2017年12月18日、2018年2月9日)付属文書および大統領付属戦略発展・国家プロジェクト評議会議事録(2018年12月24日)よりジェトロ作成。

対象年次が異なるため一概に比較はできないが、いずれも情報インフラの整備に巨額の国家予算の投入が計画されている。関連インフラ整備では、ブロードバンド化の推進、およびデータ保管(ストレージ)・処理(プロセッシング)センター、5G通信網やクラウドネットワークといったデジタルプラットフォームの構築などが想定されている。関連通信インフラ、機械設備のメーカーにとっての、新たなビジネスチャンスとなることが期待できる。

スタートアップの育成がデジタル経済化へのカギに

ロシア連邦のデジタル経済プログラムにおいて、ロシア政府は「スタートアップ」を同プログラムの成否を握る重要な要素と定義づけた。アクセラレーターなどの周辺環境整備とともに、その育成と発展に向けた支援策に必要を強調している。形成途上とはいえ、エコシステムの中に産・学が連携するスキームが動き始めたところもある。例えば、サンクトペテルブルクの国立IT機械光学研究大学(ITMO)がその一例だ。企業のデジタル関連人材の教育・育成カリキュラムを導入したほか、中小企業向けの知財活用のプログラムも設け、ITMOが知的所有権を有する技術等を中小企業に利用してもらうことで、研究開発の刺激にしている。


ITMOの教室を活用した「テクノパーク」で研究開発を行うスタートアップ(ジェトロ撮影)

その一方で、ロシアにおいては伝統的に経済・産業分野で国の関与が強くなる傾向がある。「産官学の連携」はロシアのみならず見られる取り組みだが、ロシアにおいて、企業の創意工夫を促すようなスタートアップ向け支援になるかは、今後も注視が必要だ(ロシアのエコシステムの一例については本特集「モスクワは世界屈指のエコシステム」を参照)。

スタートアップや中小規模の企業による研究開発が今後どのように進むかは、必ずしも楽観視できないのが現状だ。きらりと光る「シーズ」はあり、それを育むためのエコシステムも構築されつつある。しかしその一方で、資金面でのサポートを行うベンチャーキャピタルの未成熟(本特集「投資家はロシア企業よりも海外企業を選好」を参照)、整備途上の中小企業の活動支援制度(例えば行政上の障壁の除去)などの不安要因も残る。ロシア政府が指向するデジタル経済化の中心となり得るスタートアップ。その育成の成否が、ロシア経済の行く末を占うカギになるといっても過言ではない。


注1:
単一の大企業に、その地域がほぼ完全に依存する都市・自治体。ガス・水道などの生活インフラ、幼稚園や学校向けの予算も企業が負担する場合がある。当該企業の業績が悪化すると、その都市・自治体の経済のみならず、社会状況の悪化にも直結するリスクが高い。社会的安定にも悪影響を及ぼすため、それらの都市では産業の多角化の必要性が指摘されている。
注2:
世界的に市場拡大が見込まれる有望市場での新技術の開発、および国際的競争力の強化に向けた国家戦略。製造業のデジタル化・ハイテク化に関する分野が対象。航空、自動車、船舶、神経工学、ヘルスケア、農業、エネルギー資源、セキュリティー、金融の9産業分野、および産業横断型の「テフネット」から成る。詳細は地域分析レポート(2018年12月)を参照。
注3:
関係省庁・機関、具体的施策とその実行期限、および予算案などが網羅的に記載された政策概要書。
執筆者紹介
ジェトロ海外調査部主幹兼企画部海外地域戦略主幹(ロシア・ユーラシア)
梅津 哲也(うめつ てつや)
1991年、ジェトロ入構。2度のモスクワ勤務ののちジェトロ・サンクトペテルブルク事務所設立に伴い所長として着任。対露進出・事業展開を図る日本企業、特に自動車・同部品関連企業に多くのアドバイスを行う。主な著書は「ロシア 工場設立の手引き」「新市場ロシア-その現状とリスクマネジメント」(いずれもジェトロ)。