政権が打ち出すインド太平洋経済構想、国内議論が本格化(米国)

2022年2月9日

米国のバイデン政権は、中国との関係を21世紀最大の地政学的試練と位置付けている。ジョー・バイデン大統領自身も、「中国は最も深刻な競争相手」と明言する。

バイデン政権はこれまで、明確な対中戦略を提示してこなかった。しかし、2021年10月以降、「インド太平洋経済枠組み(IPEF)」という新しい構想に言及し始めた。構想の実現に向けた作業は、これから本格化する予定だ。本稿ではすでに明らかになっている情報から、その方向性や課題を読み解く。

苦肉の策か本腰の構想か

トランプ前政権下で激化した米中対立は、2021年1月に発足したバイデン政権下でも継続している。両国首脳は、2国間の競争関係を責任あるかたちで管理するという意識は共有しているとみられる。一方で、通商、安全保障、技術管理、人権など、対立のフロンティアはむしろ広がってきた感すらある(図参照)。そうした中、米連邦議会や米国内の有識者からは、インド太平洋地域で米国の経済的なコミットメントを示すための政策が必要との声が上がっていた。また、スピード感を持って取り組む必要があるとの指摘もあった。すなわちバイデン政権は、2021年11月に開催のAPEC首脳会談までに何らかの構想を立ち上げる必要がある、とされていた。その声の中には、米国が「環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定(CPTPP、いわゆるTPP11)」に戻ることが最善であるとの主張も相当程度含まれている。もっとも、バイデン政権は、その選択肢を折に触れて否定している。

図:米中間の対立関係
米国政府は、米中間のさまざまなイシューに対し、対抗措置を講じてきた。米中間のイシューの例として、不公正な貿易慣行、コロナ起源問題、中国の軍民融合政策、香港、新疆ウイグル、インド太平洋の経済枠組み、知財侵害、東・南シナ海、サプライチェーン、台湾、人権全般などである。これに対し、米国政府は、追加関税、投資審査、米国政府の調達規制、中国企業への証券投資禁止、入国ビザ制限、スパイ行為への司法審査強化、輸出管理、強制労働製品の輸入制限、通信網の保護、中国の在米公館の閉鎖、同盟・友好国との連携強化などの対抗措置をとってきた。

出所:米連邦政府発表資料、報道情報を基にジェトロ作成

そのような議論がある中、2021年7月ごろから、バイデン政権が同地域において多国間のデジタル貿易協定を追求しているとの報道が出ていた(2021年9月28日付地域・分析レポート参照)。これに関して、政権から正式な声明は出されなかった。しかし、9月にインド太平洋の地政学に影響を与える出来事が起きた。中国によるCPTPPへの加入申請だ。

本件の加入申請は、米国が英国とオーストラリアと共に、新たな安全保障協力の枠組み「AUKUS」を立ち上げた翌日の出来事だ。中国の動きは、これに対抗するものとみられる。米国内の有識者は、中国のCPTPP加入が実現する日はまだ遠いとの見方でおおむね一致している(2021年9月21日付ビジネス短信参照)。しかし、バイデン政権にとって、米国抜きの経済枠組みに中国が積極的に関与しようとする動きは焦燥感を募らせる要因となったようだ。米国家安全保障会議(NSC)でインド太平洋地域を統括するカート・キャンベル調整官は11月19日、中国のCPTPP加入申請を「ショーとしての動きと見る人々もいるが、私は意見を異にする。これは非常に深刻な動きだ」と発言した。

そこで、IPEFが登場する。バイデン大統領が、2021年10月末に参加した東アジアサミット(バーチャル形式)で初めて言及した構想だ。ただし、ホワイトハウスの発表では、「パートナー国と共に、貿易円滑化、デジタル経済・技術に関する基準、サプライチェーンの強靭(きょうじん)性、脱炭素・クリーンエネルギー、インフラ、労働基準、その他共有する利益に関して、共通の目的を定義する」としているに過ぎない。この時点で、具体的な点には触れられていなかった。続く11月には、同盟国および友好国に協力を働き掛ける目的で、ジーナ・レモンド商務長官とキャサリン・タイ通商代表部(USTR)代表(注)がインド太平洋地域を訪問している。その後、この両名のほか、カート・キャンベルNSC調整官ら政府高官がIPEFに関して断片的に発言している。直近の報道情報も含めて、それらを総合すると表のとおりになる。

表:要人発言に見るバイデン政権のIPEF構想
論点 推測される内容
枠組みの性質
  • インド太平洋地域における多国間の経済枠組み
形態
  • 議会の承認を要する貿易協定ではなく、分野ごとの合意形成を追求するモジュール型の枠組み
  • 米EU貿易技術評議会(TTC)に類似する可能性
対象分野
  • 貿易円滑化、デジタル経済・技術に関する基準、サプライチェーンの強靭性、脱炭素・クリーンエネルギー、インフラ、労働基準など
  • 当初の優先分野は、デジタル経済、貿易円滑化、サプライチェーン、持続可能性、労働者の権利、インフラと見られる
スケジュール
  • 2022年早期に、正式なプロセスを開始。年内に、有志国とインド太平洋経済枠組みのビジョンに関する共同声明を出す

出所:米政府高官の発言、メディア情報を基にジェトロ作成

結論から言うと、いまだに具体的な構想は明らかになっていないということになる。ただし、レモンド長官は商務省の2022年の優先目標として、有志国とIPEFのビジョンに関して共同声明を出すことを掲げている。それがいつになるのか、そこに何が書かれるかが、今後の注目点になる。

議会と産業界は多国間のデジタル貿易協定を志向

バイデン政権のIPEF構想について注目すべき点は、「議会の承認プロセスを経ない枠組み」を追求するとしていることだ。その背景には、「大統領貿易促進権限(TPA)」が2021年7月に失効したことが大きく影響していると考えられる(2021年7月2日付ビジネス短信参照)。

米国が他国と貿易協定を締結するには、TPAが不可欠と言われている。TPAがなければ、連邦議会は、政権が交渉・妥結した協定内容を承認する前に、いくらでも変更を求めることができる。交渉相手国としても、米政権がTPAを有していなければ、米国との交渉に本腰を入れづらい。実は、米政権がTPAを有していたとしても万全でないのだ。2020年7月に発効した米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)では、当時のトランプ政権が協定内容に関し議会民主党との長期の交渉を強いられた。したがって、貿易協定のかたちを追求する場合、バイデン政権はTPAを取得した上で他国と交渉し、連邦議会での調整にリソースを割かなければならないことになる。

もう1点、政権が議会の承認プロセスを回避したい理由として考えられるのが、11月に控える中間選挙の存在だ。労働組合が主要な支持母体で、歴史的に自由貿易に後ろ向きといわれる民主党にとって、中間選挙を控える中、TPAとそれを活用した貿易協定の交渉を優先するインセンティブは低いと考えられる。バイデン政権はこうした状況を踏まえて、議会を迂回する道を選んだ可能性がある。

しかし、連邦政府が計画する多国間枠組みについて、議会がこれを黙認することはない。議員としては、自らの選挙区や支持母体のために、何らかの影響力を行使したいのが常だ。これまでのところは、IPEF構想を真っ向から批判する議員は出ていない模様だ。一方で、通商や外交関連の委員会に所属する議員からは、TPA法案を可決して、多国間のデジタル貿易協定を追求すべきとの声が高まっている。上院で通商を所管する財政委員会の共和党議員らは2021年11月、政権に対してインド太平洋地域におけるデジタル貿易協定の締結に向け交渉を開始するよう求める書簡外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますを出している。下院外交委員会の有志議員からも超党派で同月、同じ趣旨の書簡外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますが政権に提出された。いずれも、インド太平洋地域における米国のプレゼンスに警鐘を鳴らし、すぐにでも交渉に着手するよう求めている。

米国がすぐにCPTPPへの加入に着手できない中、米国内の有識者らは、デジタル貿易協定を有効な手段として推奨している(2021年9月28日付地域・分析レポート参照)。同協定には、米産業界からの後押しもある(2021年12月1日付ビジネス短信参照)。直近では、国内最大の業界団体である米国商工会議所のスーザン・クラーク会頭兼最高経営責任者(CEO)が年次イベント「State of America Business 2022」で、「他国が積極的に通商協定交渉に関与している中、バイデン政権の出遅れを懸念している」旨、発言した(2022年1月12日付ビジネス短信参照)。これは、政権が発足してから1年が経過しながら明確な通商戦略が出てこないことに対し、米産業界が不満を募らせている証左とみられる。

考えられる今後のシナリオと実効性・課題は

既述のとおりIPEFの具体的な中身は今なお示されていないため、今後を見通すのは難しい。以下では、現時点で得られている公開情報や有識者の見方などを参考に、想定されるシナリオとその実効性・課題などについて考察したい。

バイデン政権が現時点で志向しているとみられる「貿易協定の形を取らない枠組み」とは、要約すると、有志国による法的拘束力を伴わない緩やかな協力ベースの枠組み、と推測される。メリットとしては、議会の承認を必要としないため、比較的容易に国内での合意形成が可能になる。 その上、法的拘束力を伴わないため、枠組み交渉に参加する有志国からの抵抗が少なく、この点でも合意形成が容易になるとみられる。

他方、国際的なルール形成という観点では、条約として法的拘束力を持つ、地域的な包括的経済連携(RCEP)協定やCPTPPなどの協定に比べ、実効性が乏しくなる恐れがある。また、参加国にとっては、米国市場へのアクセス向上や拘束力のあるデジタル貿易ルールといったインセンティブがなければ、真剣に関与しない可能性も出てくる。この点、米シンクタンクの戦略国際問題研究所(CSIS)はIPEFに関する提言書外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますで、IPEFの1つの課題として「他国の関与を獲得するのに十分な、目に見えた利益を提示できるか」を挙げている。その上で、「IPEFの下で提示された合意について、連邦議会の正式な法的承認を経ることが、交渉したルールや規範の法的拘束力と永続性を確保し、インド太平洋地域の同盟国および友好国に対して確かな枠組みという認識を与えることにつながる。バイデン政権は、議会の承認を求めるか否かにかかわらず、交渉過程を通じ議会と緊密に協議すべき」と提言している。合意形成の容易さと枠組み自体の実効性が背反する中、今後、バイデン政権がどのような提案をするのかが1つの焦点となる。

この点につき、タイUSTR代表は2022年1月に行われた公開イベントで、「IPEFは、米国とEUが2021年秋に立ち上げた貿易技術評議会(TTC、2021年9月30日付ビジネス短信参照)に近い形を取り得る」と述べた。TTCとは、新興技術の管理や国際的な通商課題での協力を目的とする枠組みだ。現時点で、技術標準や気候・クリーン技術、安全なサプライチェーンなど10の分野で作業部会を立ち上げ、議論を進めている。米通商専門誌インサイドUSトレードも、USTR高官へのインタビューで得た情報として、「バイデン政権は現在、特定の分野ごとに合意形成を模索する『モジュール型』の枠組みを検討している。その優先分野として、デジタル経済、貿易円滑化、サプライチェーン、持続可能性、労働者の権利、インフラの6つが挙げられている」と報じた(同誌2022年1月26日)。

本構想のタイムラインはどうなるか。レモンド商務長官は、2022年の早期に正式なプロセスを開始したいと述べている。しかし、そこに立ちはだかるのが11月に控える中間選挙だ。現在、民主党は僅差ながら上下両院で多数党だ。しかし、新政権発足直後の中間選挙では、歴史的に政権与党が議席を失うのが通例。政権にとって、ジレンマだ。米主要メディアも2021年後半あたりから、上院では民主党が辛うじて多数党を維持するかもしれないものの、下院では巻き返すだけの成果がない限り共和党が多数党を奪還する、との見方を報じている。直近の各種世論調査によると、有権者が連邦政府に取り組んでほしい問題として、「経済・インフレ対策」が筆頭に挙がる。これは、バイデン政権の対応に不満がたまっている様子の表れだ。パンデミックによるロックダウンを乗り越えて消費需要が回復する一方で、サプライチェーンの混乱や人手不足で供給が滞りインフレが発生していることを反映した結果と言えるだろう。このように、選挙を控え、景気を浮揚させるための具体的な成果が求められる中、多国間の経済枠組みに十分な政治資本を割けるのか、バイデン政権は正念場を迎えている。

バイデン政権としても議会民主党としても、目下の最優先事項は2021年春ごろから策定を進めてきたビルド・バック・ベター法案の成立だ。同法案には、長期スパンで米国の競争力を高めるために、教育・育児支援や気候変動対策に約2兆ドルを投じる計画が含まれていた。しかし、民主党内の中道派議員の反対を受け、法案審議が停滞しているのが現状だ(2021年12月23日付ビジネス短信参照)。そうした中、次なる優先事項として、中国との長期的な競争を念頭に置いた大型法案が懸案となっている。上院が2021年6月に可決した「米国イノベーション・競争法案(USICA、S.1260)」だ。この法案は、国内の半導体産業の振興や基礎研究能力の拡充のための支援予算が核になっている。下院もようやく2022年1月下旬に、上院法案の対案となる「America COMPETES Act(H.R.4521)」を発表した(2021年1月26日付ビジネス短信参照)。今後、下院が同法案を可決すれば、上下両院の合同委員会で上院案と下院案が擦り合わせられることになる。そこで調整された法案は、改めて各院で可決された後、大統領の署名に付すという流れになる。バイデン政権も、同法案の早期成立を求めている。政権でIPEFの推進役となっているのがレモンド商務長官で、議会へ働きかけている状況だ。

バイデン政権は、2023年のAPEC首脳会議のホスト国として名乗りを上げた。果たしてそれまでに実のある枠組みを構築できるのか、その実力が問われる1年になりそうだ。


注:
レモンド商務長官とタイUSTR代表は、IPEF構想を推進する中心的な閣僚とみられている。
執筆者紹介
ジェトロ ニューヨーク事務所 調査担当ディレクター
磯部 真一(いそべ しんいち)
2007年、ジェトロ入構。海外調査部北米課で米国の通商政策、環境・エネルギー産業などの調査を担当。2013~2015年まで米戦略国際問題研究所(CSIS)日本部客員研究員。その後、ジェトロ企画部海外地域戦略班で北米・大洋州地域の戦略立案などの業務を経て、2019年6月から現職。