タイの投資誘致政策と日本のAJIFが目指す未来
日タイ経済政策対話フォーラム(3)

2022年8月12日

タイには約6,000社の日系企業が進出しているが、既にタイは「低廉な労働力」がメリットとなる生産拠点ではなくなりつつある。日本企業が廉価な労務コストを目指して生産シフトを行うといった目的を果たすのは難しくなっている。新たな産業が生まれ、技術革新のスピードも速まる中、タイの投資委員会(BOI)はどのように投資を誘致していくのか、また、日本に対する期待は何か。日タイ経済政策対話フォーラムでの投資分野の議論を報告する。シリーズ3回目。

日本企業の誘致に成功してきたBOIの危機感

これまで製造業を中心に多くの日本企業の投資誘致に成功してきたタイ投資委員会(BOI)だが、今後の投資誘致政策については、ある種の危機感を感じているようだ。チャニン・カオチャンBOI副長官は今後注目すべき分野として「特に、環境問題はタイにとって大きな課題で、BOIとしても克服していかなければならない」という。また、タイの経済成長に伴って新たな技術も導入されつつあるが、「現在のタイの投資誘致政策は最新の技術の受け入れに対応できていない。投資家が新たな技術を持ち込もうとする中、BOIも技術を理解した上で、新技術に対応した投資政策に変革していかなければならない」と述べた。


チャニン・カオチャンBOI副長官(ジェトロ撮影)

環境関連では、タイは近年、バイオ・循環型・グリーン(BCG)を目玉とする投資誘致政策を打ち出している。コンセプトは、国内にある原材料を基にバイオ技術を活用して付加価値を高め、ヘルスケア製品などとして生産・輸出していくというものだ。チャニン副長官は「タイにとってBCGは有益な分野だ」と強調した。循環型経済の観点でも、タイが世界有数の生産地となっているキャッサバなどを使ったバイオペレット産業が推進されている。

電気自動車(EV)産業の育成もBOIの最優先事項だ。チャニン副長官は「EVバッテリーも進化しており、誘致するには適切な政策で対応しなければならない。BOIにとっての挑戦だ」とした。競合国として念頭にあるのは、EVバッテリーの原材料となる鉱物資源が豊富なインドネシアなどだ。資源国ではないタイに拠点を誘致するには、企業側に相応のメリットがなければならない。チャニン副長官は「従来と同じ方法では誘致はうまくいかないと思う。解決には、日本とのより緊密な連携が必要となる」と強調した。

目下、BOIが目指すのは、サポートの手厚さや、企業の投資認可申請の迅速化など、投資手続きの円滑化だ。ビジネスモデルの変化のスピードが速い中、「既存のBOIの投資優遇条件に当てはまらない事業も、柔軟性を持たせて受け入れる必要がある」とチャニン副長官はいう。「BOIが既存で打ち出している政策も、適切なものでないかもしれない。しかし、投資家と緊密に対話を行うことにより、現実的な政策にすることができる」として、企業の投資に即して融通をきかせる構えを見せる。BOIは日本にも事務所を設けており、そうした日本の拠点を通じて日本企業のニーズを理解し、それに応える政策を展開していくという。

日本政府の対ASEAN投資の方向性:AJIF

日本政府も、ASEANへの投資を強化しようとしている。経済産業省通商政策局の矢作友良審議官(当時)は、日本の対外投資の将来的な方向性として同省が掲げる「アジア未来投資イニシアチブ(AJIF)」について紹介した。

日本にとってタイは東南アジアの重要な生産拠点・市場だ。タイには8万人を超える在留邦人が居住し、約6,000社の日系企業が進出するなど、日本にとって東南アジア最大の拠点だ。矢作審議官は「タイと日本はサプライチェーンなどを通じ、緊密な相互依存関係を形成している」という。

これまで日本とタイは製造業を中心に裾野産業の育成や、人材育成、投資促進まで幅広い分野で協力し、「重層的で緊密な経済関係が日タイ関係の特徴」となっている。その上で「日本とタイが重要なパートナーとして、今後ともに歩み、成長する新たな段階に来ている」と矢作審議官は言う。

そこで、日本政府はAJIFによって、持続可能な経済社会に向け、タイをはじめASEANとの間で未来志向の新たな投資を積極的に行い、官民で日ASEAN経済関係のさらなる成長を目指す考えだ。AJIFは以下の3つの理念を重視している。

  • リアリズム:各国の実情に真摯(しんし)に向き合い、実効性ある良い解決策を提供する。
  • イノベーションとサステナビリティー:民間のイノベーションを最大限に活用し、持続可能な経済社会の基盤をつくる。
  • 未来の共創(コ・クリエーション):日本とASEAN地場企業の協業など、日本と各国が補完的・対等なパートナーとして地域の未来をともに作っていく。

こうした理念を重視して目指すのは「グローバルサプライチェーンのハブとしての魅力を高め、強靭(きょうじん)で信頼できる自由貿易をリードする日ASEAN関係」「持続可能性を高め、地域の社会課題の解決に資するイノベーションを創造し続ける日ASEAN関係」といった未来像だ。同時に、2021年に経済産業省が発表した「アジア・エネルギートランジション・イニシアチブ(AETI)」を通じ、脱酸素化に向けて日ASEANでエネルギートランジションを進めていく。

矢作審議官は「未来の実現に向けて、サプライチェーン、連結性、デジタルイノベーション、人材投資を強化していきたい」という。「日本と ASEAN の企業協業を通じ、 タイなどASEAN 各国と日本がともに成長する共創(コ・クリエーション)というコンセプトの下、タイとともにアイデアを出し合い、連携していきたい」と表明した。

AJIFに基づく具体的な投資支援策の例として、矢作審議官は(1)海外サプライチェーン多元化などの支援事業、(2)デジタル技術を活用したサプライチェーン管理の高度化支援事業、(3)アジアデジタルトランスフォーメーション(ADX)事業の3つの施策を紹介した。

1つ目の「サプライチェーン多元化事業」では、日本企業の海外生産拠点の多元化支援を行い、タイを含むASEAN地域への投資を促進している。例えば、タイではセイコーエプソンがこれまで主に日本国内で生産していた水晶振動子について、タイでも生産を拡大することでサプライチェーンを多元化し、製品の安定供給を図る。 2つ目の「デジタル技術を活用したサプライチェーン管理の高度化支援事業」では、サプライチェーンのハブとしてのタイの魅力が向上すると説明する。トレードワルツの事例では、同社が開発するブロックチェーン技術を用いた貿易プラットフォーム(貿易情報をデジタル化し、信用状などを電子的に交換するシステム)を、タイのナショナルデジタル貿易プラットフォーム(NDTP)や、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドなどの海外貿易プラットフォームと連携させる取り組みだ。通関の元情報となる実ビジネスの商流電子データを共有することで、通関業務の効率化につなげる実証事業を行っていく。同事業を通じて日本、タイ、オーストラリア、ニュージーランドの貿易手続きをさらに円滑化し、連結性を高めることを狙っている。

3つ目のADX事業は、デジタル技術を活用した社会課題の解決とビジネス促進を目指すものだ。日本企業が有する技術・ノウハウなどの強みを生かし、タイなどASEAN 各国の社会課題の解決に貢献するもので、日本企業とASEAN企業との協業、プロジェクト組成を支援している。現地の社会課題解決にとどまらず、新たな市場開拓も推進することが期待される。具体的には、ウミトロンの事例がある。タイでエビ養殖事業向けにモノのインターネット(IoT)や人工知能(AI)技術を活用し、生産効率の改善や自然環境の保全、労働負荷の軽減を促進するプロジェクトで、最終的に持続可能な開発目標(SDGs)への貢献が期待できる。

強みは低廉な労働力から高度な産業人材へ

ジェトロ・バンコク事務所の竹谷厚所長(当時)は現在の日系企業の投資状況について解説した。ジェトロの調査によると、タイ進出日系企業数は2020年時点で5,856社となっている。2008年から約5割増加した。竹谷所長は「もともとは製造業が非常に強い拠点だったが、最近では非製造業の進出が増えているのも特徴」だという。

竹谷所長は「日系企業が世界で一番集積しているのは中国と思っている人も多いが、実はASEANこそ世界で最も集積がある」と言う。東洋経済新報社の海外進出企業総覧によると、2020年時点でASEANでの日系企業数の合計は9,036社で、中国の6,985社よりも多い。「ASEANの中でタイには最大の日系企業の集積がある」(竹谷所長) という。

竹谷所長は進出日系企業へのアンケート結果(図参照)を紹介し、タイに日系企業が集積する理由として、(1)ビジネスパートナーが多い、(2)外国人にとって住みやすい、(3)素材や部品などの基礎的な産業が集積している、(4)インフラが充実しているといったメリットを挙げた。他方、過去に投資メリットとされていた「低廉な労働力」という点では、ほかのASEANに比べて重視されていない状況だという。

図:所在国の投資環境面でのメリット(長所)(複数回答)
2021年度進出日系企業へのアンケートの結果、タイに日系企業が集積する理由として、(1)ビジネスパートナーが多い、(2)外国人にとって住みやすい(3)素材や部品などの基礎的な産業が集積している、(4)インフラが充実している、といったメリットが挙げられた。

出所:2021年度 海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)

日本のタイ投資の将来的な方向について、竹谷所長は「タイにとって日本は最大の投資国であり、タイには投資誘致ができるだけの魅力がそろっている。両国政府の政策的方向性も示されており、RCEP(地域的な包括的経済連携)協定も日タイ間のビジネスに追い風となる。あとは具体的な案件をどう形成するかが課題」と述べた。ジェトロは2022年1月にBOIや東部経済回廊(EEC)事務局と投資誘致にかかる覚書(MoU)を締結しており、具体的な取り組みをもっと強化していく。

BOIのチャニン副長官によると、タイはインドシナ半島の中心に立地する地理的な優位性のほか、自然災害が少ないといった利点がある。また、米中対立の構図が長期化する中でも、タイは中立的な立場にあり、米中いずれに輸出する場合でも関税障壁が低いため、輸出基地として今後投資が拡大していく見込みで、日系企業のさらなるタイ進出も期待される状況だ。

他方、既述のとおり、以前とは異なって「安い労働力」は既にタイ進出のメリットとは言えない。この点はチャニン副長官も認識しているところだ。「タイがより高度な技術と産業を発展させるには、非熟練労働者だけでは不十分で、技術力の高い人材が必要だ」という。そのためにタイが必要としているのは、人材確保と人材育成で、チャニン副長官は「大学や企業と連携することが不可欠」と指摘する。産業人材の確保を狙ったプロジェクトも始まっているという。

チャニン副長官は「重要なのは人材であって、高度な人材を増やしていかなければならない。日本企業からはさまざまな意見をもらっており、今後どのように人材育成していくかを議論したい。産業界の要望に対応していきたい」と結び、日系企業を中心に発展した自動車産業のように、高度な産業人材と新たな産業の育成に向けて意欲を見せた。

執筆者紹介
ジェトロ・バンコク事務所
北見 創(きたみ そう)
2009年、ジェトロ入構。海外調査部アジア大洋州課、大阪本部、ジェトロ・カラチ事務所、アジア大洋州課リサーチ・マネージャーを経て、2020年11月からジェトロ・バンコク事務所で広域調査員(アジア)として勤務。