資産管理サービス金融が発達、美術品・宝飾品取引も盛ん
スイスの富裕層向け産業(1)

2021年6月9日

スイスは、個人資産保有高で世界トップクラスだ。その理由として、古くは宗教改革による迫害からの避難、そして、第一次・第二次世界大戦の被害からの避難のため、政治・経済の安定したスイスに資産を移す動きが進んだことが挙げられる。スイスでは産業革命以前、酪農と雇い兵などの産業しかなかった。しかし、時計や金融など付加価値の高い産業が発達して以降、個人所得が国際的に高水準になった。さらに貯蓄率は、他の欧米諸国と比較して2~3倍、日本の7倍にも及ぶ。その高さと相まって、スイス人の資産管理ニーズも高まったことも要因だ。

このシリーズでは、世界の富裕層の資産管理を引きつけるスイスの魅力と、さまざまな富裕層向けサービスの実態について報告する。まず本稿では、スイスで特徴的なプライベートバンキングや美術品・宝飾品取引、保税倉庫ビジネスなどについて概説。本稿以降の(2)~(5)では、世界のスイスを舞台とする富裕層の金融資産運用や、美術品取引、宝飾品製作、絵画・金・ワインなどの高額品収蔵を取り扱う保税倉庫の実態をそれぞれ掘り下げて分析する。

プライベートバンクでは、財産や居住地の国外移転支援まで支援

スイスで富裕層の資産は、個人ではなく家族や団体資産の形で運用・承継されてきた。富裕層の個人資産管理に特化した銀行、すなわちプライベートバンクは18世紀末には登場している。例えば、大手プライベートバンクのロンバー・オディエ銀行は1796年、ピクテ銀行は1805年に設立された。ジュネーブでは家族資産管理から、チューリッヒでは為替銀行からプライベートバンクが発達した。プライベートバンクは、顧客の最低保有資産額を設定。資産額の一定割合を手数料として徴収する。例えば、金融資産1億円以上の富裕層だけが対象とされる(具体的には銀行ごとに規定は異なる)。いずれにせよ、高額資産保有者のみが利用できるサービスだ。

UBSやクレディ・スイスなど、法人向け銀行業務を含めた総合銀行サービス(ユニバーサルバンキング)を提供する銀行はある。その一方で、前述のロンバー・オディエ銀行など富裕層資産管理に特化したプライベートバンクが多数存在していることが特徴だ。一定以上の資産額を扱う銀行は、銀行法上の「銀行」ライセンスを受ける必要がある。富裕層の資産運用を資産マネジャーとして支援する個人まで含めると、数百以上のプライベートバンクがスイスに存在すると推定される。しかし、多くは有限会社で資産公開義務もないことから、その実態は明らかではない。

日本では、富裕層資産向けのサービスが進んでいなかった。そのことから、近年、スイスのプライベートバンクと提携する事例も増えている。スイスをはじめに欧米銀行が手掛ける「プライベートバンキング」は「ウェルスマネジメント」という言い方もされている。日本でも富裕層資産管理サービスを「ウェルスマネジメント」と言っているが、欧米のものとの最大の違いは、家族財産の承継に特化した資産管理形態「ファミリーオフィス」の有無だろう。複雑・国際化した資産管理のサポートのために複数の専門家を雇うことが特徴で、業務内容には財産や居住地の国外移転支援なども含まれる。日本の「資産管理」というイメージから大きく離れているのだ。「EYグローバル・ファミリー・オフィスガイド2021」によると、世界中で1万程度の「ファミリーオフィス」が存在するという。

資産運用としての美術品取引

2010年ごろからは、美術品取引がブームを迎えていると言われる。「ジ・アート・マーケット2021」によると、2020年の世界の美術品取引市場は501億ドルに達した。個別取引では、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる「サルバトール・ムンディ」が2017年、ニューヨークのクリスティーズにおいて約4億5,000万ドルで落札されたことが話題になった。絵画作品としては過去最高額だ。最近では、現代アート、特にバンクシーやジョナス・ウッドなどストリートアートと呼ばれるカテゴリーに属する作品の人気が高い。

この美術品ブームを支えているのが、新興作家の作品の買い取りや注文制作による作品を扱う新作市場(プライマリーマーケット)と骨董(こっとう)品・中古取引市場(セカンダリーマーケット)だ。新作市場は、バーゼルで毎年開催されてきた世界最大級の美術品展示会「アート・バーゼル」や、芸術家の発掘・育成の役割を持って所属作家の作品展示を行うアート・ギャラリーやディーラーが市場の主な担い手だ。対して中古品は、オークションハウスや(セカンダリー)ギャラリーやディーラーが主に担っている。

個人による美術品取引の目的は、実にさまざまだ。例えば、芸術を嗜好(しこう)物として収集するいわゆるコレクション形成の売買や、作品を購入することで将来性の高い作家の支援・育成につなげるなど今後の文化振興が視野に入れられることがある。そこから、富裕層による投機目的まで幅広い。欧州では、歴史的に教会や貴族、地方の有力者などが文化振興の担い手だった。近年は、富裕層がこれらに代わって資産管理の一環、あるいはフィランソロピー(慈善活動など非営利の社会貢献活動)の一環で美術品を収集する事例も増えている。スイスには公益財団が1万3,375社あり、そのうち文化・レジャー振興を目的とする財団は3,672社で全体の約4分の1を占める。また、UBSが主要スポンサーのアート・バーゼルのように金融機関が支援する芸術新興活動も多数ある。

ここで、富裕層資産の運用先という視点から美術品取引を見る。UBSが発行した「グローバル・ファミリー・オフィスレポート2020」によると、2019年のファミリーオフィス資産の運用先としては、株式や現金などが59%、事業・不動産投資やヘッジファンドが35%、金・貴金属3%、美術品やアンティークが3%だ。全体から見ると、美術品は資産運用の主力とは言えない。ただし、美術品購入に積極的な新興富裕層が登場してきた。またアート市場の活況とともに、美術品の保管ニーズも増大してきた。ジュネーブの保税倉庫フリーポート(後述)は2010年、美術品保管のための専用倉庫を建設した。作品を保管・保存する環境にはさまざまな条件が求められるためだ。

ただし、最近では、新型コロナウイルス感染拡大による影響で、2020年の世界の美術品取引は前年比22%減となった。オークションやディーラーのオンライン取引が拡大する一方、リアルの交流が重要なアートフェアやオークションは縮小した。今後、美術品ブームを受けた取引市場がどう推移するか、注視が必要だ。

美術品取引を支える保税倉庫、留置期間無制限が強み

前述のとおり、美術品取引や絵画展示を支えているのは、安全で確実な美術品保管設備の存在だ。ジュネーブにある世界最古・最大級の保税倉庫ジュネーブ・フリーポートは、安全で信頼性の高い保管能力と、長期にわたり大規模収容もできる点や地理的なアクセスに優れる。そのために、美術品や高価な有形資産の保管依頼が集中。例えば、既述の「サルバトール・ムンディ」は、ジュネーブ・フリーポートで保管されていた。特にスイスは、保税倉庫の留置期限がない(ちなみに、日本の総合保税地域は通常2年、延長は可能)。すなわち、スイスへの輸入手続きを経ず、美術品や金、ワインなどの高額有価資産を安全に保管できる、ジュネーブ・フリーポートは、世界最大の「セーフルーム」といえる。

また、保税を手続きする場としての役割は、世界の美術振興に少なからず寄与している。スイスを中継地とするする他国間取引の際に、貨物を一時的に保税倉庫に留め置くと、再輸出する際のスイス国内での付加価値税賦課が免除される。この制度により、国外から美術品を借り受けて展示する場合、保税倉庫で美術品をいったん受け入れ、一定の制約の下で国内展示に供した後に保税倉庫から国外に搬出すれば良い。商流としては、スイスを通ることなく貸し主のもとに美術品を返すこととなる。当該美術品は、スイス国内での付加価値税課税を免れるわけだ。このように保税倉庫を利用した美術品やワインなどの取引ビジネスは、2010年以降、シンガポールやルクセンブルク、上海などに拡大。国際的な競争状態に入っている。

宝飾品加工では、とくにフランス語圏で高技能

富裕層の主な資産には、金融商品や不動産に加え、高額な有形資産として美術作品や宝飾品が挙げられる。ジュネーブでは16世紀後半、金細工が伝統産業として栄えた。しかし、カルヴァンの宗教革命の結果、富を見せびらかすことをよしとしない風土が広がる。宝飾品産業には逆風となった。しかしそこに、ジュネーブに亡命したユグノー(フランスのカルヴァン派新教徒)が持ち運びできる小型腕時計作りのノウハウを持ち込んだ。このことで、時計と宝飾品の両産業が結びつき、互いの加工技術を生かしながら高級時計産業として発展していくことになった。現在の時計製造では、フランス語圏のジュネーブとジュラ地方のほか、シャフハウゼン(IWC)やビール(オメガ、スウォッチ)などドイツ語圏にも集積がある。ただし宝飾品加工については、フランス語圏での職能訓練のほうが厳しいとされる。宝飾品職能訓練修了者に対するスイス連邦の技能資格試験自体は、フランス語圏もドイツ語圏も変わらない。しかし、フランス語圏では宝石加工と貴金属加工に部門が細分化され、専門的に長期間の訓練を要する。その結果、独自の発達を遂げてきた。

ダイヤモンドや金などはマネーロンダリングに使われやすく、特段のトレーサビリティーが求められる。一方でそれ以外の宝飾品についても、真贋(しんがん)やグレードの判定、加工技術が求められる。これに関しては、宝石の種類ごとの関連技能認定は拡大途上で、国際的に確立したものはない。そのため現状では、技術と取引ノウハウを有し、信頼される団体に人材育成の依頼が集まる状況にある。ジェトロは、フランス語圏で宝飾職人の育成を行っている宝飾職人協会(ASMEBI)(2021年1月12日付地域・分析レポート参照)とデビット・クラフト(David Craft)にインタビューした。その結果は、別途報告する。

全世界で取り引きされる金の6割近くを輸入

宝飾品産業で使用する原材料あるいは保全有形資産としての金の取引も、スイスで非常に盛んだ。スイスに金鉱山はない。しかし、宝飾品産業が戦後盛んだったイタリアへの輸出をきっかけに、金の精錬が発達。世界の上位6社の金精錬業者のうち、パンプ(Pamp)、バルカンビ(Valcambi)、アルゴー・ヘレウス(Argor-Heraeus)がティチーノ州に、メタロー・テクノロジー(Metalor Technologie)がヌーシャッテル州に精錬所を構える。また、富裕層相手の資産取引や宝飾品産業の需要から、金地金の輸出入も多い。金の取引事業者の国際団体ワールド・ゴールド・カウンシル(本拠地:ロンドン)の発祥の地はジュネーブだ。実際、2000年まではその本拠地が当地に置かれていた。

現在でもスイスは中国、ロンドンと並ぶ金の主要取引市場だ。2020年には約2,173トン、金額にして827億スイス・フラン(約10兆894億円、1スイス・フラン=約122円)もの金がスイスに輸入されている。これは、同年の世界金取引量3,757トン(ワールド・ゴールド・カウンシル統計)の58%にも達する。なお、輸出(約1,281トン)に回っているのはそのうち58%にすぎない。残りは宝飾品加工やスイス銀行・国内銀行などが財産としてスイス国内で保管する分に回っていると考えられる。ジュネーブ保税倉庫に対するインタビューでは、銀行が有価資産として金を預けている事例も多いとのことだった。なお、金の輸出入を国別にみると、スイスは金取引ハブの英国やアラブ首長国連邦(UAE)などさまざまな国・地域から広く輸入。米国、インド、英国、中国の4極に輸出しつつ、総輸出に近い量を国内で消費・蓄積していることがわかる。

表:2020年のスイスの金取引 (単位:キログラム)
国・地域名 輸入 輸出
英国 189,496 132,585
香港 177,815 26,990
アラブ首長国連合 139,912 9,106
米国 120,651 515,956
シンガポール 7,848 28,018
中国 7,776 30,509
インド 1,183 178,945
合計 2,172,555 1,281,495

出所:スイス統計局データに基づきジェトロ作成

高リスクからダイヤモンド取引は縮小

金と並んで、かつてはダイヤモンドも取引が容易な高額有形資産として用いられた。しかし、紛争国で産出したダイヤモンド原石がマネーロンダリングや武器購入に用いられるといった懸念が急速に高まった。その結果、国際的なダイヤモンドの原産地認証制度を協議するキンバリープロセスが2002年、スイスで合意された。ダイヤモンドの取り扱いで有名な資源商社デビアスは、2001年まで主要な活動拠点をルツェルンに置いていた。そのため、スイスはそれまで、西欧においてベルギーと英国に次ぐダイヤモンド原石取引の中心地だった。しかし、2001年末にデビアスが活動拠点をロンドンに移して以降、スイスでのダイヤモンド取引は縮小傾向にある。2011年のスイス全州議会答弁では、キンバリープロセスの創始国の1つとして、スイスはダイヤモンド取引の透明性拡大に努力するとの方向性を示した。ジュネーブ・フリーポートでは現在、ダイヤモンドの受け入れはリスクが高いとして認めていないという。

執筆者紹介
ジェトロ・ジュネーブ事務所長
和田 恭(わだ たかし)
1993年通商産業省(現経済産業省)入省、情報プロジェクト室、製品安全課長などを経て、2018年6月より現職。