ウクライナへの軍事侵攻、ロシアIT人材の国外流出の引き金に

2022年10月26日

ロシアはこれまで、欧米企業のIT開発の委託先としての役割を担う一方、一部のIT企業が国際的な成功を収めるなど、ロシアの優秀なIT人材が直接的、間接的に世界の革新的な技術の発展に寄与してきた。しかし、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻(2022年2月)以降、最大で10万人のIT人材が出国したといわれている。人材流出への危機感から、政府はIT人材への優遇策で引き留めを狙うが、これまでと大きく変わった国内外の環境を背景に、人材を含め世界的にも競争力を持つIT大国としての地位を失う恐れもはらんでいる。本稿は、2022年9月までの状況に基づき取りまとめたものである。

数万人規模の出国者、主要な出国先はジョージア、トルコ、アルメニア

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻後、多くのIT技術者がロシアから出国したと言われている。状況は流動的だが、各種報道によると、一時は5万〜10万人のIT技術者がロシアから離れたと推定される。セルゲイ・プルゴタレンコ・ロシア電子通信協会(RAEC)会長が侵攻から約1カ月後の3月22日に発表した内容によると、侵攻後にロシアを離れた技術者は約5万~7万人だった。他方、軍事侵攻やロシア政府に反対するロシア人の国外移住を支援している非営利団体「OKロシアン」が2022年2~3月にロシア国外へ移住した人に対して行った調査を基に推計したところ、ロシアを離れたIT関連労働者は約10万人を数える。ロシア政府は5月中旬、軍事侵攻後に国外に退避したロシア人の約8割がロシア国内に戻り、その大部分はIT技術者だったと発表したが、一時的な帰国なのか本格的に戻ったのかは不明だ。

ロシアのIT技術者の移住先としては、ジョージア、トルコ、アルメニアが多い模様だ。ジョージアとアルメニアは、ロシア国籍者には入国ビザが不要であり、トルコは到着時にビザが発行されるためである。さらに、米国、カナダ、欧州、中東、あるいは中南米などへの移住もある。

欧米企業の撤退、対ロ制裁が人材流出の要因に

技術者を含むIT人材がロシアを離れる背景には何があるのだろうか。ジェトロは8月9日、サンクトペテルブルクで創業し、現在は米国を拠点として各国展開するIT企業の事業開発マネージャーA氏に話を聞いた。A氏は今後、同じ会社に勤めながらも、勤務地をロシアから別の国に変更する予定だ。同社は侵攻開始以降、ロシアの全オフィスを閉鎖し、ロシアに勤務している1,500人の従業員全員に対してアルメニア、セルビア、カザフスタンへの転勤を打診し、従業員の約半数が転勤に同意した。A氏の周りでは、転勤や国外移住の決定を撤回した社員はおらず、移住を決めた社員は2022年末までに移住を完了させる予定だという。A氏は「この国は経済危機に向かっており、困難な時代になると感じている」とし、政情不安、無力感、身の危険、子供たちの未来への不安が出国を決断させた理由だと述べた。

A氏の例を含め、ロシアのIT人材が国外へ移動することになった外的要因をひもといてみると、大きく3つが浮かび上がった。

1つ目の要因は、外資企業のロシア市場からの撤退だ。A氏のように、勤め先の企業のロシア市場からの撤退、または事業停止を受け、会社の求めに応じてIT技術者が国外移動する動きがある。世界的ソフトウエア開発・エンジニアリング企業であるEPAMシステムズは、ロシアおよびベラルーシで働くIT人材をウズベキスタンに移動させた(2022年6月29日付ビジネス短信参照)。またドイツ銀行も、モスクワおよびサンクトペテルブルクの技術センターで働くロシア人従業員に対してベルリンへの転勤を打診しており、半数が打診に応じた、と報じられている〔ドイツ国営通信社ドイチェ・ベレ(DW)6月7日〕。外資企業の撤退の影響を受けたのは、外資企業に勤める従業員だけではない。大手フリーランスの取引プラットフォームを提供するアップワーク(Upwork、米国)やファイバー・インターナショナル(Fiverr、イスラエル)がロシアでのサービス提供を停止したことで、フリーランスの技術者を含むロシアのIT人材は顧客とつながるすべを失った。これまでのようにロシア国内で仕事をして報酬を得る、というモデルの継続が困難な状況に置かれている。

2つ目の要因は、ロシア国外からの支払い手段が制限されたことだ。前出のA氏によると、A氏の勤務先がロシア人従業員を国外に移転する決断をした理由の1つは、対ロ制裁の影響でロシア人従業員への給与支払いが技術的に難しくなったことである。決済手段の制限は、スタートアップ企業の活動や事業展開にも影響を与えた。商品・サービスに対する対価を受け取るために使用していたアップル・ペイ、グーグル・ペイなどの支払いシステムの一部が軍事侵攻後にロシア国内で使えなくなったことを受け、国際的に展開しているロシアのスタートアップ企業はロシア以外の国に移動し、法人と口座を作る必要があった(モスクワ地域メディア「RIAMO」7月26日)。

3つ目の要因は、レピュテーションリスクや二次制裁リスクを理由に、外資企業がロシア企業との取引を控える動きだ。A氏の勤務先がロシア拠点を閉鎖し、従業員を国外移動させることにしたもう1つの理由はレピュテーションリスクだった。A氏は「一部の銀行や一部の顧客がロシアとのつながりを理由に私たちと働くことを拒否し始めた」と説明した。

また、米国のIT企業家であり、CIS諸国のスタートアップ企業を支援するオンラインコミュニティの創設者であるイーゴリ・ショイフォト氏は、ジェトロが2022年2月末に行ったインタビューの中で、「これまでロシアにルーツを持つことがマイナスに働くことはなかったが(ウクライナへの軍事侵攻で)状況は変わった。もし、企業創設者がロシアで生まれ育ち、スタートアップ企業もロシア登記で、クライアントもロシアにいるとすれば、それは今後、ビジネスの大きな障害になるだろう」と述べ、ロシアを起源にもつスタートアップ企業への風当たりが厳しくなることを予見していた。

ロシアのITベンチャー企業の多くはこれまでも、より大きい市場や投資を求めて海外市場を目指す傾向があった。しかし、ロシアの大手報道機関RBKホールディングおよびニュース配信Anewsの前最高経営責任者ビャチェスラフ・マセンコフ氏によると、国際市場に商品・サービスを提供しているロシアのスタートアップ企業の8~9割がロシアからの移転を余儀なくされ、今も移転先の国にとどまっているという(RIAMO7月26日)。

政府も、IT人材の流出に危機感

急速なデジタル化が進むロシアでは、2月24日のロシアによるウクライナへの軍事侵攻開始以前から、IT分野の専門家の不足が指摘されていた。それに加え、軍事侵攻をきっかけに多くのIT人材がロシア国外へ流出することとなった。アンドレイ・トゥルチャク連邦上院第一副議長は「IT人材をめぐる国家間の競争が激しくなるなか、特別軍事作戦の開始後に一部のIT人材が海外へ流出したことは正直に認めざるを得えない」(「ベドモスチ」紙4月25日)と述べるなど、政府も危機感を隠さない。

このような状況のもと、政府はIT人材確保に向けた支援策を打ち出している。プーチン大統領は軍事侵攻後の3月2日、大統領令第83号「IT分野における発展促進に向けた諸施策について」に署名した(同日発効)。同大統領令では、政府から認定を受けたIT企業に対して、a.有望技術の開発促進に向けた補助金の提供、b.低利融資の供与、c.2024年末まで法人税を0%とすることなどを定めた。IT人材に対しては、d.認定IT企業に勤務する期間の兵役猶予、e. 大統領令を受けた政府決定(2022年4月30日付第805号)で優遇住宅ローンの提供など、認定企業に勤める人材の生活環境改善に向けた措置を盛り込んだ。また、国外のIT人材の呼び寄せを狙い、連邦法「外国人の法的地位について」を改正(2022年6月28日付連邦法第207-FZ号)し、認定IT企業と雇用契約を結んだ外国人IT技術者の滞在資格の取得要件を簡素化することを定めた。

プーチン大統領が9月21日に発表した部分動員(9月21日付大統領令第647号「部分的動員について」)に関連して、国防省は、国の基幹産業に関わる情報、通信、メディア、金融分野における高等教育を受けた人材を対象外とすることを発表した。ITを担う人材は、重要な人的資源であるという位置付けは変えていない。

ロシア政府は今後、輸入代替政策の一環として、欧米企業が撤退した後のソフト面、ハード面のインフラ整備を自国企業や人材で開発していく方針だ(2022年2月16日付ビジネス短信参照)。

IT分野を含め、欧米企業がロシアからの撤退・事業停止を選択するなか、優秀な人材はロシア国外でも活躍の場を見つけやすい状況だ。ロシア政府はIT人材への優遇措置や欧米企業の穴を埋めるべく、独自のIT産業育成策を掲げるが、優秀なIT人材をロシアにとどめる効果があるかは未知数だ。高度な人材を武器に発展してきたロシアのIT産業は今、その優位性を維持できるかどうかの瀬戸際に立っている。

執筆者紹介
ジェトロ海外調査部欧州ロシアCIS課

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