行政から進むAI活用の最前線
シンガポール、AI実装先進国へ(1)
2026年10月1日
シンガポールでは、大臣や公務員を筆頭に、人工知能(AI)の業務への活用が本格化している。AIの活用は単なる業務効率化にとどまらず、国民の能力を拡張し、国家競争力の強化を目指す「国家AI戦略(NAIS)」の一環だ。先端AIモデルの開発ではなく、行政や医療分野など社会実装を優先するシンガポールのAI戦略を前後編で追う。
行政から始まるAI実装
「私の(自律型AI)パーソナル・エージェントは3カ月前から動き出している」。2026年5月、シンガポールで開催されたAIのイベントでこう語ったのは、同国のビビアン・バラクリシュナン外相だ。
バラクリシュナン外相は、AIエージェント「ナノクロー(NanoClaw)」や音声入力ツール「ウィスパー(Whisper)」など複数の既存ツールを自ら組み合わせ、パーソナル・エージェントを構築した。2026年5月の1カ月間だけでも12カ国を訪問し、数百人と面会する多忙な日程の中で、「認知負荷」を軽減したい思いがあったという。そこで、AIを活用してどこにいても必要な情報を引き出し、演説草稿や国会答弁の草案などを自動作成できる、自身の「第2の脳」として構築した。同外相は「システム構築のための必要なツールは世の中に既に存在しており、活用するための技術的なハードルが劇的に下がっている」と指摘した。
公務員が日々の業務でAIを活用する動きも加速している。ガン・キムヨン副首相兼貿易産業相は2025年9月、約15万人の全公務員に対しAIリテラシー研修の受講を義務付けたことを明らかにした(2025年9月25日付ビジネス短信参照)。政府テクノロジー庁(GovTech)は2023年7月には公務員専用のAIチャットボット「ペア(Pair)」を開発した。Pairは2026年第1四半期時点で毎月、約9万490人の公務員が利用しているという。また、2026年6月2日付のストレーツ・タイムズ紙によると、GovTechは、AIエージェントのレジストリ(登録簿)を構築している。各政府機関で開発されたAIエージェントを、安全性を確保した上で他機関と共有し、再利用できる環境整備が進んでいる。
「AIバイリンガル」人材、10万人支援へ
行政でのAI実装は、シンガポール政府の「国家AI戦略(NAIS)」に基づく動きだ。政府は大規模言語モデル(LLM)が普及する前の2019年、最初の「NAIS1.0」を発表した。その後、2022年末以降に生成AIやLLMが急速に普及したことを受け、2023年12月に「NAIS2.0
(6.1MB)」を公表した。NAIS2.0では、「公共利益のためのAI」の実現を前面に打ち出し、15の行動計画の1つとして、AIを活用した行政サービスの改善を掲げた。
さらに、国家経済戦略見直し(ESR)(注1)で、AIの一層の活用が重点戦略の1つに位置付けられたことを受け、政府は2026年5月、NAIS2.0の内容を更新した(注2)。更新版では、3つの重点領域と10の優先項目を設定し、その優先項目の1つに政府機関全体でのAI導入の一層の推進を掲げている(表参照)。政府が先んじてAIを実装し、「責任あるAI導入と実践の先進モデル」となることを目指す。バラクリシュナン外相も前述のイベントで、AIを実際に活用しなければ「(AIの)可能性と限界、課題も理解できない」と強調した。
参考:国家AI戦略(NAIS2.0) 改訂版(2026年5月発表)の3つの重点領域と10の優先項目
3つの重点領域
- 重要産業分野(先進製造業、金融サービス、物流、ヘルスケア)および政府機関におけるAI活用の深化
- 幅広いAIの普及推進と労働者全体のAI能力の定着
- AIソリューションの開発、実証、社会実装を推進するための国際的なAIハブの構築
10の優先事項
- 重要産業分野ごとにAIミッションを設定し、変革を推進。産業界全体にAI活用を浸透
- 政府機関全体のAI導入を一層推進し、行政の変革を加速。より質の高い市民へのサービスを提供へ
- 国家AI・R&D(NAIRD)(注1)計画に基づき、公的AI研究や人材育成に約10億Sドルを投資
- 特定の専門領域の知識とAIスキルの両方を兼ね備えた「AIバイリンガル人材」の育成。同時にAI専門高度人材の誘致と国内の専門人材の育成
- 年齢や職種を問わず全ての労働者のAI習熟度の向上
- 職住一体型のAI共創拠点「カンポンAI」(注2)の設置。産官学の連携を深化し、内外のエコシステムを統合へ
- 環境配慮型データセンターの開発など資源効率の高いAIとコンピューティング能力の確保
- プライバシーと安全を確保しつつ、必要なデータセットの公開
- 安心してAIが活用できる社会環境の構築
- 信頼できるAIの国際ハブとしての地位強化
注1:2026年1月発表の予算10億シンガポール・ドル(約1,230億円、Sドル、1Sドル=約123円)規模のAIの国家R&D計画。
注2:カンポンAIについては後編参照。
出所:デジタル開発・情報省、2026年5月20日付報道発表を基にジェトロ作成
AI実装を急ぐ背景には、シンガポールが直面する少子高齢化と人手不足という課題がある。ローレンス・ウォン首相兼財務相は2026年2月、2026年度政府予算案の演説で、AIを効果的に活用すれば、「限られた天然資源、急速な高齢化、労働力不足という構造的制約の克服も可能だ」と強調した。国民(永住権者を含む)の合計特殊出生率は2025年時点で0.87と、過去最低を記録した。65歳以上の高齢者の割合も2025年に20.7%と、2015年の13.1%から大きく拡大した。一方、2026年6月時点の失業率は2.0%(速報値)と低水準にあり、労働市場の逼迫が継続している。
こうした中、政府はAIを一人一人の生産性を高め、能力を拡張する最適な手段としている。更新したAI戦略では、テクノロジー以外の分野で働く人々が、それぞれの専門分野とAIの双方を使いこなす「AIバイリンガル」となることを促し、今後3年間で10万人を支援する目標を設定した。会計や法務などを皮切りに、AIを業務に活用できる人材を育成する計画だ。
AIが変える医療現場と予防医療
ただ、シンガポールは先端AIモデルの開発を目指しているわけではない。ガン・キムヨン副首相兼貿易産業相は2026年5月13日、「シンガポールは(AIの)先端モデル開発競争は行わない」と述べた。その代わりに「社会課題を広く解決するAIソリューションの開発、検証、実装を行う世界有数の拠点となることができる」と強調した。
その代表例の1つが医療現場だ。人口高齢化が進行する同国では慢性疾患を抱える患者が増え、医療現場の負担も高まっている(2023年8月2日付地域・分析レポート参照)。医療従事者の負担軽減に向け、2024年にAIを活用した診療記録作成支援ツール「スクライブ(scribe)
」が導入された。シンガポールで話される独特の言い回しやアクセントにも対応し、診療時の会話を文字起こしして診療記録の作成を支援する。これにより、診療記録の作成時間を1回の診療当たり36分削減できるという。
AIの活用は医療現場の業務効率化から、国民の疾病リスクの予測へと広がっている。保健省は2026年3月5日、同省の医療テクノロジー開発機関シナプス(Synapxe)が開発した「AI慢性疾患者向け支援(ACE-AI)」を2027年初めから導入する計画を明らかにした。ACE-AIは患者の診療記録などを分析し、今後3年間に糖尿病や脂質異常症などの慢性疾患を発症するリスクを予測する仕組みだ。
こうしたAI活用を支えているのが、保健省が長年にわたり整備してきた医療・健康データの基盤だ。同省は2011年から国民の電子カルテシステム「国家電子健康記録(NEHR)」を導入し、公立・民間の医療機関が患者の医療情報を共有できる仕組みを構築してきた。また、同省管轄の健康促進庁(HPB)が2015年から運用するアプリ「ヘルシー365(Healthy 365)
」には、ウエアラブル端末から取得した毎日の歩行量や食生活、運動などのデータが蓄積されている。HPBのニコール・リム最高データ責任者(CDO)は2026年7月2日、デジタル医療の国際展示会・会議「スマート・ヘルス・アジア」で、「生成AIやデータサイエンスの発展により、データを積極的に活用し、生活習慣上のリスク要因だけでなく、健康プログラムへの参加や継続の可能性についても予測している」と述べた。AIの活用範囲は、患者ごとの疾病リスクの予測から、さらに個人の行動特性に応じて健康づくりを支援する「精密公衆衛生」へと広がりつつある。

- 注1:
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国家経済戦略見直し(ESR)については、2026年5月20日付ビジネス短信参照。
- 注2:
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2026年5月に発表された「NAIS2.0」改訂版は、デジタル開発・情報省の資料
(10.7MB)参照。
- 執筆者紹介
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ジェトロ・シンガポール事務所 調査担当
本田 智津絵(ほんだ ちづえ) - 総合流通グループ、通信社を経て、2007年にジェトロ・シンガポール事務所入構。共同著書に『マレーシア語辞典』(2007年)、『シンガポールを知るための65章』(2013年)、『シンガポール謎解き散歩』(2014年)がある。





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