カナダ・オンタリオ州のスタートアップ・エコシステムの今
2026年2月6日
カナダはしばしば米国の巨大市場の陰に隠れがちだ。しかし実際には、優れた産業エコシステムを有する、進出先として魅力ある国だ。高い教育水準、豊富な人材、特定分野における技術集積を背景に、国際展開を志向するスタートアップが数多く生まれている。本レポートでは、カナダの中でもスタートアップの最大集積地であるオンタリオ州トロント市および同市近郊に焦点を当て、主要産業とスタートアップ・エコシステムの動向を整理する。
トロント大都市圏の産業
トロント市を中心とする、トロント大都市圏(グレーター・トロント・エリア)はカナダ最大の経済圏だ。同地への企業誘致や投資促進を行う非営利組織のトロント・グローバルによると、カナダのGDPの20%はトロント大都市圏で生み出されている。その経済を支える人口規模も非常に大きく、2024年に700万人を突破し、カナダの人口の17.2%が同都市圏で生活している。
また、トロント大都市圏には多様な産業クラスターが存在しており、同市や関連公的機関の産業支援・投資誘致資料では、雇用規模・集積度の観点から、金融・保険、ライフサイエンス・医療、テクノロジーなどの産業が成長を牽引している。
金融・保険業に関しては、カナダの5大銀行であるロイヤル・バンク・オブ・カナダ(RBC)、トロント・ドミニオン銀行(TD)、モントリオール銀行(BMO)、スコシアバンク、カナディアン・インペリアル・バンク・オブ・コマース(CIBC)の全てが本社をトロントに置く。日本の銀行も、三菱UFJフィナンシャルグループ、三井住友銀行、みずほ銀行といったメガバンクはトロントに支店を構える。トロントはカナダの中で最大の金融街であり、同市の発表では、21万人が金融・保険業界で働いているとされる。オンタリオ州政府が2022年から行っている施策も金融業の発展を支えている。同州金融サービス規制局(FSRA)と同州の非営利組織フィンテック・ケイデンスがパートナーシップを締結し、フィンテック関連スタートアップにFSRAのテスト・アンド・ラーニング環境(TLE)を提供している。
ライフサイエンス・医療に関しては、1923年にカナダで初となるノーベル生理学・医学賞を受賞した医学者フレデリック・バンティング氏によるインスリンの研究が旧トロント総合病院で行われたことをきっかけに、医学・薬学分野で世界から注目を集めた。世界トップクラスの病院群があり、治験など臨床試験が実施しやすいなど評価の基盤ができあがった。また、その環境を生かして、連邦政府はトロント大学などと研究型教育病院ネットワークのユニバーシティー・ヘルス・ネットワーク(UHN)を作り上げ、医学・薬学における人材と実験の集積地を形成した。トロント市の発表によると、同市は北米の人間健康科学分野でトップクラスの都市の1つであり、地域経済に35億ドル以上の貢献をしているとされる。
テクノロジーに関しては、特に人工知能(AI)、機械学習、量子コンピューティングなどの分野で強みがあるとされる。AIの機械学習に大きな影響を与え、2018年に計算機科学分野で最も権威のあるチューリング賞や2024年にノーベル物理学賞を受賞し、AIの父と呼ばれるジェフリー・ヒントン教授が在籍するトロント大学と、同氏とトロント大学が中心となって設立した同大とベクター研究所を軸とするAI研究基盤の存在は、トロントのAI研究の先進性の象徴的存在となっている。また、コンピューター・サイエンスで強みを持つトロント近郊のウォータールー大学、そしてその2都市をつなぐトロント-ウォータールー回廊は、グローバル企業を引きつけてやまない。ウォータールー大学は、グーグル、マイクロソフトとパートナーシップを結んでおり、特にグーグルは同エリアにカナダ最大の研究拠点を置く。
テック人材も非常に豊富だ。米商業不動産サービスCBREが発表した「2025スコアリング・テック・タレント」調査の技術系人材市場ランキングは、高度技術系人材を引きつけ、成長させる能力に基づいて各都市を評価したものだ。同ランキングの中で、トロントは米国とカナダの50都市中、第3位となっているほか、ウォータールーは7位に位置している(表参照)。
| 順位 | 都市名 |
|---|---|
| 1 | サンフランシスコ・ベイエリア(米カリフォルニア州) |
| 2 | シアトル(米ワシントン州) |
| 3 | トロント(カナダ・オンタリオ州) |
| 4 | ニューヨーク(米ニューヨーク州) |
| 5 | オースティン(米テキサス州) |
| 6 | ワシントンD.C.(米マサチューセッツ州) |
| 7 | ウォータールー(カナダ・オンタリオ州) |
| 8 | ダラス・フォートワース(米テキサス州) |
| 9 | ボストン(米マサチューセッツ州) |
| 10 | バンクーバー(カナダ・ブリティッシュコロンビア州) |
注:技術系人材は、ソフトウエア開発者・プログラマー、ITサポート・データベース・システム関連職、技術・工学系関連職、コンピューター・情報システム分野の管理職を指す。
出所:CBREからジェトロ作成
同調査によると、2024年のトロントのテック人材は33万4,200人にのぼる。2021年から2024年の間に、トロントは4万2,900人のテック人材雇用を追加した。これはニューヨーク大都市圏やテキサス州のダラス・フォートワースに次ぐ拡大だ。また、ウォータールーは小規模な都市でありながらテック人材雇用の伸びが同期間で58%と、北米の中でも突出している。
これら産業の厚みや人材の豊富さ、そして金融業の集積に伴い、トロント大都市圏は長い期間にわたりさまざまなエコシステムを形成してきた。
トロント大都市圏のイノベーション・エコシステム
トロントではスタートアップの育成にも力を入れている。その中でも、インキュベーター兼イノベーションハブのMaRSと、インキュベーターのDMZはトロントのスタートアップを支える主要なプレーヤーだ。
MaRSは、前述の旧トロント総合病院の建物の一部を改装して作られた背景もあり、設立当初は医療科学に焦点を当ててスタートした。しかし現在は対象分野も多様化し、医療のほか、クリーンテック、フィンテック、企業向けソフトウエアのほか、AI、自動運転などプラットフォーム技術についても支援を提供している。
また、MaRSは大学・研究機関や病院、金融機関、政府機関など、スタートアップを育てる各方面の関係者と近接しており、ダウンタウンにある同施設を中心に、ディスカバリー・ディストリクトを形成している。同ディストリクトは約14万平方メートルの敷地を誇り、スタートアップ、スケールアップだけでなく、スポンサー企業やベンチャーキャピタル、各種サービスプロバイダー、再生医療やAI、がん研究センターなどの研究機関が集積している(2019年11月22日付地域・分析レポート参照)。その結果、MaRSは単なるインキュベーターではなく、研究機関、政府、金融機関、VCを結ぶ北米最大級の都市型イノベーションハブとして拡大している。MaRSに所属するスタートアップは資金調達、規制対応、実証環境も得やすい。特にAI分野では、トロント大学の研究力とグローバル企業の関心も集約する場所となっている。


もう一方のDMZは、カナダ最大手のスタートアップ・インキュベーターだ。トロント・メトロポリタン大学発で、これまでに世界15カ国以上でプログラムを展開しており、2010年から現在までに2,600社を超えるスタートアップを支援し、総額29億5,000万カナダ・ドル(約3,363億円、Cドル、1Cドル=約114円)の資金調達を実現、2万5,000人以上の雇用を創出した実績がある。大学発という背景から、大学内での支援提供に強く、シードからアーリーステージのスタートアップを主な対象としていることに加え、グローバルネットワーク展開と実務支援に強みがある。また、提供する支援の内容は、アーリーステージ起業家向けオンラインプログラム、女性起業家特有の課題に対応するプログラム、若手や学生起業家のための短期集中プログラムなど、支援プログラムが目的ごとに明確に整備されている。

トロント近郊地域のスタートアップ・エコシステム
イノベーションは、トロント西方のウォータールー・キッチナー地域でも起きている。名門ウォータールー大学が運営するスタートアップ支援プログラム兼インキュベーターのベロシティ(Velocity)は大学を中心にした企業支援コミュニティーとして大きな役割を果たしている。ベロシティの最大の特徴は、コミュニティーへの参加費が無料だということに加え、家賃を含め、参加しているスタートアップから資本を受け取らないことだ。事業を始めたばかりのスタートアップにとっては、資本面での不安がなくなることから、創業初期のハードルが下がることになる。
また、ベロシティのネットワークの広さも特徴の1つだ。大学と地域のコミュニティーやイノベーションハブと密に連携し、起業家同士や、ベンチャーキャピタルなどとのネットワーク形成支援を実現している。特に、グーグルとのネットワークは強い。ベロシティの建物自体が元々グーグルの施設であり、同社との連携プログラムなどが存在している。
ベロシティをさらに下支えしているのが、同地域のテック企業全体をつなぐイノベーションハブのコミュニテック(Communitech)だ。スタートアップにとどまらず、事業拡大を目指すスケールアップ段階の企業、大企業も同ハブの支援対象に含まれる。同ハブでは、2万9,000人を超えるテック系人材、1,200社を超える参加企業をつなぎ、ウォータールー地域のテックコミュニティー全体の成長を支えている。
スタートアップに対する公的支援は
オンタリオ州に所在する企業、あるいはオンタリオ州に投資しようとする企業、スタートアップに対しては、公的団体によるさまざまな支援がある。オンタリオ州政府が設立した投資誘致・成長支援機関のインベスト・オンタリオでは、立地選定支援、マーケット・インテリジェンスの提供、インベスト・オンタリオ・ファンドなどの資金提供およびその相談などのサービスを提供している。これらは専任のチームが事業計画の検討から実行まで伴走し、州・連邦・自治体の支援への優先アクセスを調整する点が特徴だ。
カナダ連邦政府も、カナダ輸出開発公社(Export Development Canada、EDC)を通じてスタートアップなどの支援を実施している。EDCでは最大25%の少数持分による直接投資・共同投資・ファンド投資を通じて、年商50万~1,000万Cドルの新興企業には最大1,000万Cドル、年商1,000万~3億Cドルの中堅企業には5,000万Cドル以上の出資を柔軟に行う。さらに、ベンチャーキャピタルの審査を活用した「EDC投資マッチングプログラム」を運用し、最大2,500万Cドルまでを迅速に共同出資する。同時に、最短30日で資金調達に関する迅速な審査にも対応する。
また、市況変動時にはEDC貿易影響プログラムから複数の支援を実施する。EDC貿易クレジット保険は支払い遅延に伴う損失を補償する。EDC保証では、キャッシュフローの課題管理や事業拡大のための運転資金の調達を可能にする。2年間で50億Cドルの追加支援を予定しており、その中で前述の対応のほか、為替リスク対応まで包括的に支援するとしている。
トロント大都市圏はスタートアップに対する手厚い支援が受けられ、人材も非常に豊富で、ベンチャーキャピタルや金融機関をはじめとした資本へのアクセスが容易だ。スタートアップ・エコシステムの評価も世界的に高い。日系スタートアップの進出はいまだ少ないが、魅力的な進出先の1つだといえる。
- 執筆者紹介
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ジェトロ調査部米州課
谷本 皓哉(たにもと ひろや) - 2023年、ジェトロ入構。同年から現職。




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