世界的工科大学やグローバル企業が牽引するスイスの研究開発
スイスのAIに関する研究開発・起業動向

2020年3月27日

スイスは、デジタルシングルマーケット確立に向けてデータの流通を進めることや、人工知能(AI)による産業構造変化に対応できるよう、人材育成と制度整備、公衆との対話を重視しており、AI研究・活用の政策的方向性はEUとよく似ている。EUのAI戦略作成にもメンバーとして参加している(2019年5月17日付地域・分析レポート参照)。

また、AIの研究や利用に関して倫理面の一定の歯止めをかけるべきとの議論が進んでいる。EUは2019年4月に信頼できるAIのための倫理ガイドライン外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますを発表した。米国では2020年1月に産業界における公正・透明・安全なAI利用を進めるための規制ガイドライン案外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますを策定し、3月13日を期限にパブリックコメントを募集した。スイスでは、産業界のデジタル化を進めるデジタルスイスが、AI利用における倫理基準の保護を目的とした長期的かつ持続可能な過程として、スイスデジタルイニシアチブ外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますを2019年9月に創設した。これは、新たに創設されたスイスデジタルイニシアチブ財団が資金提供して運営される。ITを担当する財務省の後援を受けている。

スイスのAI研究開発体制

前回のレポートでもスイスの研究開発の主要プレーヤーについて紹介したが、今回は幾つかの研究機関、企業動向の具体例を交えて掘り下げる。

(1)全体概要

スイスでは、国(連邦)立大学である連邦工科大学チューリッヒ校(ETH)とローザンヌ校(EPFL)の2つが人材輩出やスタートアップ創出の観点から抜きん出た存在ではあるものの、州立大学のチューリッヒ大学、ジュネーブ大学、バーゼル大学などもAI研究を行っている。産業とのパートナーシップについては、実践的な教育に重点を置く各地の応用工科大学(HES)や人工知能社会学研究機関(IDIAP)(バレー州)、IDSIA研究機関(スイスAIラボ)(ティチーノ州)が積極的に行っている。

(2)公的研究・教育機関

表1:スイスの主要な公的AI研究開発機関

国(連邦)立
機関名 概要
連邦工科大学チューリッヒ校(ETH) AI関連の学科としては、コンピュータサイエンス学部に機械学習(ML)学科、画像処理学科、知的インタラクティブシステム学科があるほか、情報技術・電気工学部にニューロサイエンス研究室がある。ETHは起業活動も盛んであり、1990年代後半以来400以上のスピンオフが輩出され、うち45はコンピュータサイエンス学部関係者により設立された。
また、ML学科内にドイツのマックスプランクとのパートナーシップによるETH学習システムETHセンター外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますが2015年に設立された。
連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL) バイオロボティクスやナノテクに強みを持つ。AI関連では、コンピュータ・通信科学学部にAI・ML学科、データマネジメント学科が存在している。また、EUが欧州最大級の脳研究イニシアチブプロジェクトと位置付け、2013年から合計10億ユーロを投入している「ヒューマン・ブレインプロジェクト外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます」は、EPFL傘下のキャンパスバイオテックがパートナーとなっている。
州立・公立機関
機関名 概要
IDSIA研究機関 (スイスAI ラボ) IDSIA(Dalle Molle Institute for Artificial Intelligence Research)は1998年、イタリアの実業家デレ・モレ氏により南部ティチーノ州に設立。同州の南スイス応用科学大学(SUSPI)とイタリアのスイスイタリア大学Università della Svizzera Italianaの提携により運営。ディープラーニング(DL)とニューロネットワーク研究が盛ん。
人工知能社会学研究機関(IDIAP) 1991年、イタリアの実業家デレ・モレ氏によりデレ・モレ人工知能関連研究所としてバレー州に設立。2007年、バレー州の産業育成機関Ark財団、ジュネーブ大学、スイスコムと提携し、IDIAPに改称。EPFL国際コンピュータサイエンス機関(ICSI)のエルブ・ボーランド教授が理事長を務めており、企業との共同研究に重点を置く一方で、EPFLの人工知能研究所(LIDIAP)との提携により、IDIAP在籍研究者に対する修士・博士号コースが設立されている。
ジュネーブ大学 1972年、デレ・モレ氏により自然言語理解(セマンティックス、注)と認識研究を行う機関としてデレ・モレ・セマンティック認識研究所(ISSCO)がティチーノ州ルガノに設立された。1976年には、同研究所はジュネーブ大学翻訳解釈学部(FTI/TIM)に統合。同学部は現在、EUとスイス科学財団(NSF)のプロジェクトを中心に同時通訳などの研究を行なっている。
チューリッヒ大学 ヨーロッパでもっとも古い公立大学として知られるチューリッヒ大学では、情報学部に人工知能ラボを設置している。情報工学を中心として同大学からのAIを含めたIT関連スピンオフ企業も1999年以来100社を超えている。
サンガレン大学 サンガレン大学はビジネス教育で有名で、起業教育やAI研究にも力を入れている。スイス全国に先駆けてAI学習処理用のスーパーコンピュータNVIDIA DGX-2を2018年に導入した。

注:セマンティックス:言語や記号とそれが指す意味内容やモデルを結びつけること、その学問体系。コンピュータが自然言語理解を行おうとすると、各単語がそれぞれ何を意味しているのかという領域を結びつけるセマンティックスが重要になる。
出所:各種資料を基にジェトロ作成

スイスにおける主要なAI研究機関について以下に示す。

図:スイスの主要なAI関連研究機関
スイスのAI関連研究機関を地図上に示したもので州立大学・教員認定機関は12、応用科学大学は8か所。   ローザンヌに所在する研究機関はローザンヌ工科大(EPFL)、ブルー・ブレイン・プロジェクト(人工知能)。また、ロジテック、シスコ、インテル、シーメンス(機械)各社のR&Dセンターがある。   ジュネーブに所在する研究機関は欧州原子核研究機構(CERN)(量子科学)。   ヌー・シャテルの主要産業は時計・精密機器。 ヌー・シャテルに所在する研究機関はスイス電子・マイクロテクノロジーセンター。   バーゼルの主要産業は医薬品。   チューリッヒの主要産業は金融。チューリッヒに所在する研究機関は、チューリッヒ工科大学、パウル・シェラー研究所(量子科学)。また、グーグル、ディズニー、IBM、フェイスブック、マイクロソフト各社のR&Dセンターがある。   ルガノに所在する研究機関はIDSIA(人工知能)とCSCS(スパコン)。

出所:各種資料に基づきジェトロ作成(ロゴは各機関ウェブサイトから)

(3)人工知能社会学研究機関(IDIAP)の事例

スイス南西部バレー州のマルティニに所在する公立の人工知能社会学研究機関IDIAPにおける研究人材確保や産学連携のシステムについて、ジェトロは2019年11月に技術移転部のジョエル・デモーリン氏にインタビューを行った。

IDIAPのAI研究実施体制

スタッフ130人のうち、常勤の研究者は14人のシニアリサーチャー(うち教授5人、リサーチアシスタント2人)のみで、63%が有期雇用のポスドクやトレーニーなど。IT部門が6人、管理部門12人の構成となっている。研究開発については、11のリサーチグループを擁しており、音声認識、画像認識から自然言語理解(セマンティックス)などをカバーしている。毎年50以上のプロジェクトを実施している。

研究資金は、45%が公的資金〔マルティニ市、バレー州、連邦の研究助成機関イノスイス(innosuisse)とアルマスイス(armasuisse)、スイス国立研究財団SNSFやEUの競争的資金(ソクラテスなど)〕が約45%、10%が国際・国内の企業共同研究から(グーグル、サムスン、フェイスブック、スイスコム)だ。プロジェクトの進捗に応じて、例えば、アーク財団(バレー州)とハスラー・スティファング(Hassler Stiftung)財団からの支援を概念実証段階に充て、より大きなプロジェクトにはイノスイスやEUからの資金を充てるなど、予算の内部分配を行っている。年間予算は2019年で1,200万スイス・フラン(約13億4,400万円、1スイス・フラン=約112円)。

イノスイスのファンドは企業との共同研究でIDIAPが50%、企業が50%の均等負担を要件として、IDIAP在籍の研究者の給与を助成している。同ファンドでは、企業側は負担分50%のうち5%をキャッシュで支払う必要があるものの、残り45%は現物支給(企業の設備やノウハウ提供を企業側貢献としてカウント)で可能という。企業側のキャッシュフロー上の負担が少なく、共同研究が無理なく行えるスキームとなっている。

IDIAPはインターンシップ制度として、企業の研究者を広く迎え入れ、さまざまなAI利用分野についての研究を進めているが、EPFLとの提携により、これらの派遣されたインターンに修士号を与える学位授与制度を2019年から開始した。

デモーリン氏も言っていたが、IDIAPによるAI研究上のこれまで最も大きな功績は、音声翻訳認識アプリ・レクアップ(Recapp)とAIライブラリー・記述言語・トーチ(Torch)の開発であろう。レクアップはIDIAPのドクターだったデビッド・イムセン博士が2014年に開発した方言を認識する音声認識アプリで、サンガレン州、バレー州、セルベイ・モラズ町の議事録起こしや通信事業者スイスコムのセットトップボックスにも採用されている。レクアップは2015、2016、2017、2019年に、スイスの創業5年以内で最も優れたスタートアップ100社を表彰する「ベストスタートアップ100」(2019年9月17日付ビジネス短信参照)にも選出された。

トーチは、AI学習対象となる膨大なデータライブラリーとその効率的な利用を支えるフレームワークの1つだ。AI研究開発の現場では、AIの精度向上を支えるライブラリー・フレームワークがさまざまに発達しており、グーグルが開発するテンソ―フローや、フェイスブックやマイクロソフトが支援し、オープンソースで開発が進められているパイトーチが知られている。これまでパイトーチの開発を支えてきたのは、IDIAPのロナン・コロベール氏(2014年にフェイスブックに移籍)とサミー・ベンジオ氏(2007年にグーグルに移籍)だ。また、コロベール氏はパイトーチの前身であるトーチ(Torch)を開発しており、これがパイトーチに引き継がれた。

ほかにも、AIを活用したIDIAPのスピンオフとして、アップルのフェイスIDに採用された3D 顔認識技術(スマートフォンなどのカメラで連続撮影された人物の顔画像から、その人物の顔の3次元配置を把握し、登録されたユーザーとして識別する技術のこと)であるキーレモン(KeyLemon)や、仮想現実(VR)や複合現実(MR)で必要となるユーザーがどこを見ているかという視線方向に関する情報を眼球運動から特定する技術を持つアイウエア(Eyeware)が挙げられる。

IDIAPの沿革

IDIAPは1991年 イタリア人起業家デル・モレ氏によりデル・モレ人工知能関連研究所として発足した。デル・モレ氏は、アーティチョークから作る薬用酒のチナール(Cynar)とノンアルコール飲料クロディーノの開発で財をなした。彼は、生活上のストレスをなくすことを目指しており、ITによる人間生活の変革を信じていたことから、バレー州に1つ(のちのIDIAP)、ティチーノ州に2つ(のちのIDSIAとジュネーブ大学翻訳解釈学部)のAI研究所を創設した(植物研究を行うメディプラントも同氏が創設)。それが地域の州政府や連邦工科大学との連携により、地方での独自のAI研究拠点となっている。

産業化に向けたエコシステム

バレー州は情報通信やライフサイエンス、エネルギー環境分野でインキュベーター、アクセラレーター、イノベーションを行う財団法人アークを2004年に設立し、同地の主要な研究機関との産学連携施設(イノベーションパーク)を設置してきた。AIについてはIDIAPの敷地内にイデアーク(IdeArk)、植物研究についてはフィトアーク(PhytoArk)〔デレ・モレ財団が設立した植物研究を行うメディプラント(バレー州)との共同研究 を念頭、2013年〕、バイオなどの分野はバイオアーク(BioArk)(2015年モンテーに設立)がそれぞれ設立された。

IDIAPの産学連携部門イデアークは 2005年設立。IDIAPの技術移転を行う企業として設立、以降、AI技術を利用したスタートアップから産業化までのエコシステム形成を担ってきた。現在、イデアークではインキュベーションスペース300平方メートルを提供しているが、手狭になったため、600~800平方メートルに増設工事中という。現在13スタートアップ、8スピンオフが入居中。2019年に東京で開催された大規模な情報通信技術(ICT)展示会CEATECのジェトロゾーンに出展した、前述のアイウエアもイデアークに入居している。

2019年から開始されたEPFLとの提携による企業派遣のインターンへの修士号授与制度により、地元企業に就職したインターンも数人程度いた。課題は、IDIAPでのインターンシップを受け入れても、共同研究が終わると出向元の州外の大企業に戻ってしまうため、バレー州にいつかないこと(IDIAPの研究者の平均勤続年数は7年)。デモーリン氏は、地元に共生した研究開発体制を確保することが今後の課題と述べた。

(4)スイスのAI研究関連団体・支援団体

表2:スイスのAI研究関連団体・支援団体
団体名 概要
デジタルスイス(DigitalSwitzerland) スイスでAIの研究および導入を含め、産業界のデジタル化を進めていくための横断的な産官学からなる団体。2015年のダボス会議で創設が提唱され、スイスの主要企業150社(デジタルスイスウェブサイトによる、最終アクセス日3月11日)が会員となっている。スイスの主要都市でのデジタル化推進イベント「スイス・デジタルデー」開催のほか、企業のAI研究・デジタルトランスフォーメーション(DX)などを支援している。
スイスコグニティブ(SwissCognitive) 2016年12月設立のAIに関する議論を推進するためのオンラインおよびオフラインのコミュニティー。ツーク州にあるワイ・ウェイトが運営。350以上の企業と提携関係にある。EUにおけるAI戦略策定時にスイスからAI関係機関として招かれている。
マインドファイア(Mindfire) 2017年、ETH内に設立された非営利AI研究財団。チューリッヒ州政府とチューリッヒ地区経済振興機関のグレーター・チューリッヒ・エリアの支援をうけ、同財団がコーディネートし、知見を備えた大学、企業、機関などが参加する横断的なAI・ロボティクス研究センターをチューリッヒ地区に創設することが2019年10月に発表された。
人工知能と認知科学のためのスイスグループ(Swiss Group for Artificial Intelligence and Cognitive Sciences:SGAICO) ベルンにあるスイスのAI研究者による産学連携プラットフォーム。AIを社会におけるイノベーションに活用することを目指している。

出所:各種資料を基にジェトロ作成

スイスの産業界の動向

スイスは伝統的に染物産業に起源を持つライフサイエンスや、香料、精密機械(時計)の産業競争力が強く、それに支えられたAI導入が進んでいる。スイスの貿易投資促進機関であるスイス・グローバル・エンタープライズ(S-GE)が引用する連邦知的財産庁の2019年のデータによると、スイスで特許ポートフォリオのサイズ(特許および出願の数)が大きい研究活動が盛んな企業は、ライフサイエンス・ヘルスケア分野ではロッシュ、ノバルティス、フィリップモリス、ネスレなど、インダストリー4.0(製造革命)ではABB、グーグル、アマゾン、シスコ、GE、シーメンスなどだった。

また、2つの有力な連邦工科大学(ETHとEPFL)からのコンピュータサイエンス人材確保を狙って、IBM、グーグル、フェイスブック、アマゾン、マジックリープといった企業が研究所をスイス国内に置くようになっており、画像処理、自然言語理解(セマンティックスなど)、翻訳など横断的な技術分野でのAI研究も盛んだ。

表3:スイスにおける主な企業のAI研究活動
企業名 概要
IBMリサーチラボ IBMは基礎研究を行うため6大陸に12のリサーチラボ(基礎研究所、IBMのウェブ掲載資料による)を擁し、産業界では屈指の研究開発機関。IBMチューリッヒリサーチラボは、比較的古く1956年に設置され、超電導、スマートカード、ネットワークなどの研究開発活動を行なっている。AIに関してさまざまな範囲・様態のデータから特徴や意味を見いだす「コグニティブ」技術の開発・実装、機械学習用の高速コンピューティングプラットフォームの構築、ブロックチェーン活用、医療応用などの研究が進められている。
グーグル・チューリッヒ グーグルは、ETHの人的資源獲得やスイス内外の大学・研究機関との協業のため、2004年、チューリッヒにリサーチセンターを開設した。同リサーチセンターでは、AIの研究開発のほか、グーグル・アシスタント、Gメールや各種ビルトインサービス、ユーチューブやグーグルマップのアプリの一部の開発を行なっている。
報道によると、ここ数年急速にAI関連研究を強化しており、現在4,000人以上の研究者を擁し、米国外で同社最大規模のAIリサーチセンターとなっている。スイス国鉄(SBB)がチューリッヒ中央駅近くの広大な敷地を提供しているという。
ディズニー・リサーチラボ ディズニーはカリフォルニアとチューリッヒにリサーチラボを設置し、コンテンツの画像処理に関する研究開発を行なっている。チューリッヒリサーチラボについては、ETHの隣に立地しており、現時点では所長のマーカス・グロス教授ほかETH出身の研究者を中心に45人の研究者が研究を実施しているもようだ。
UBS AI研究センター スイス最大の銀行であるUBSは、ティチノ州ルガノにあるIDSIAと提携してAI研究センターを2018年1月に設立した。
スイスコム AIラボ スイス最大の通信企業スイスコムは2015年、EPFLと共同で同校内にAIラボを設立した。250人以上(スイスコムウェブサイトによる)の研究者を擁しており、2015年以来、ETHおよびIDIAPと、2018年からは米国マサチューセッツ工科大学(MIT)とも提携している。また、スイスコムはAIスタートアップの市場概要を四半期ごとに発表している。
マイクロソフト 2014年2月にロボティクス、AIやシステムソフトウエアに関するEPFLとETHと共同研究を行うため、スイスジョイント研究センターの活動を開始した。その一環として、複合現実(MR)とAIに関するチューリッヒラボが2019年10月に創設された。マイクロソフトは、現実世界の画像に仮想現実のオブジェクトを重ねて表示できる複合現実バイザー「ホロレンズ」を開発しているが、同ラボではこれに関連し、画像分析や3次元仮想オブジェクトの構成などAIを利用した研究が行われている。

出所:各種資料を基にジェトロ作成(最終アクセス3月11日)

スイス産業界におけるAI導入事例

2020年1月にEPFLが主催した機械学習の国際カンファレンス「Applied Machine Learning Days(AMLD、仮訳:応用機械学習デー)」で各社がプレゼンテーションした興味深い事例を以下に紹介する。

表4:スイス企業によるAI活用事例
企業名(発言者) 概要
ロッシュ(PHCデータサイエンス部長アシフ・ジャン氏) 製薬企業では、医薬品の開発に必要な臨床データや生理学データのみならず、医療機関とも連携して実際の医療記録の分析が可能な体制構築を進めており、AIは集められたデータの分析、予測に用いられている。
ロッシュでは、臨床試験データを20以上の医療機関との連携により、プロファイリング用遺伝子データについてはメディシン財団を通じて収集している。データの分析については、米国データ分析企業フラット・アイアンと提携している。データ収集対象患者数は200万人以上という。個人の健康状態に関する記録(ヘルスレコード)については、本人とデータ共有できるプラットフォームとしてピクニック・ヘルスを提供している。
ノバルティス(デジタルオフィス ニコラス・ケリー氏) 1970 年に血液疾病診断にAIを適用したのが最古のヘルスケアへのAI適用事例と言われている。人体は最も複雑なデータジェネレーターであり、心拍や血液、遺伝など多様なデータを活用すること、各人の医療用保険記録(MHR)をどう活用していくかが重要となる。
疾病バイオ学、患者の診断、分子抗体の開発の各分野で大きな変化が現在起こりつつある。伝統的な医薬品産業は終わり、多様なバックグラウンドを持ったものが協力すべき時代になっている。ノバルティスは2019年9月にマイクロソフトと提携を開始、マイクロソフトのクラウド基盤アジュールを使ってAIプロジェクトを実施している。
ファーメニッヒ(デジタルラボ副社長フィリップ・グレナ氏) 125年前にジュネーブで設立された香水・香料企業で、ネスレ傘下のジボーダンと市場を二分している。ファーメニッヒは39億スイス・フランの年間収益の10%をコロイド・ポリマーなどの分子基礎研究、成分開発や人体への吸収プロセスといったライフサイエンス分野の研究開発に投入している。1年半前にEPFLに設置したデジタルラボでは、成分ごとの特性(沸点、融点、濃度、溶解度、分子構造等)を数値化し、さまざまな成分の組み合わせをAI利用により開発している。食品企業パートナーは8,000、取得特許数は3,700以上に上るとのこと。
スイス・リー(調査エンゲージ部長ジェフェリー・ボーン氏) 保険会社にとってリスク分析に基づいた保険引き受け、収益の確保は重要な課題だが、これに対するAI活用が進んでいない現場について説明があった。ガートナー調査によると、AIプロジェクトの85%が失敗し、AI技術の成熟度は、ガートナーが定義するハイプサイクルでは2019年に過剰な期待のピーク時期から幻滅期に入ったことから、保険会社でもAI実装の課題が浮き彫りになってきたものと考えられる。
スイス国鉄(SBB)(研究者アルバート・ホッフステッラー氏) 鉄道の運行管理は、単なる踏切・信号管理だけではなく、ダイヤ運行計画や現在地情報把握を統合的に行う列車運行管理システム(PTC)の導入が各国で進められているが、スイス国鉄でAIを活用しながら運行管理システムの開発を進めている事例が紹介された。現在、スイス国鉄は利便性向上のため運行本数を増やした結果、能力が限界に近づいており、かつての定評ある定刻運行が実現困難になっている。そのため、2040年までに、より緻密な列車輸送を実現するスマートレール4.0プロジェクトを進めている。
まずは、軌道および周辺画像分析により常時現在位置を列車が検出できるシステムを開発する。列車位置情報はGNSS情報により補強しているが、GNSSの利用は、米国GPS、ロシアGLONASSなど政治情勢に影響を受けることから、将来的にはこれを全てAI画像認識などによる車両位置把握技術で代替したいという。軌道のポイント通過で得られる列車配置情報をベースに、鉄道の敷設距離を示すキロポスト(距離標)を車載カメラで読み取り、AI分析することで、現在位置を正確に把握するように研究を行っている。また、列車の起動スイッチの状況もカメラで確認することで安全性も向上するとのこと。

出所:AMLDでの各社プレゼンを基にジェトロ作成

執筆者紹介
ジェトロ・ジュネーブ事務所長
和田 恭(わだ たかし)
1993年通商産業省(現経済産業省)入省、情報プロジェクト室、製品安全課長などを経て、2018年6月より現職。