外国人労働者の人権配慮、取引先に潜むリスクにも留意(タイ)
2025年8月4日
欧米を中心に世界各地で進む人権デューディリジェンス(DD)や、環境・社会・ガバナンス(ESG)情報開示の義務化、企業の社会的責任(CSR)に対するNGOや消費者、投資家などからの圧力を受け、自社や取引先のサプライチェーン全体で、人権への配慮を求める動きが世界的に広がっている。欧州ではサステナビリティー関連規制を一部簡素化し、企業負担を軽減する軌道修正も見られるものの、人権尊重の取り組みを企業経営に組み込むことは、企業価値向上や経営リスク軽減のためにも必要不可欠になっている(2025年4月11日付地域・分析レポート参照)。
全世界に広がるサプライチェーン全体での対応が急務となる中、東南アジアでも徐々に取り組みが進展しつつある。一方で、依然として児童労働や強制労働、住民移転といった人権侵害が潜むリスクが指摘されている。特に2021年の国軍による政権掌握(政変)以降急増したミャンマーからの労働者については、人権侵害リスクが懸念されている。2025年3月にミャンマーで発生した大地震の影響で倒壊したバンコクの高層ビルの建築現場でも、ミャンマーなどからの出稼ぎ労働者も多く犠牲となったと報じられた(注1)。
本稿では、中でも日本企業のサプライチェーンが集積するタイを取り上げ、2025年3月下旬にジェトロが実施した在タイ日系企業や国連機関、法律事務所など専門家へのインタビューを基に、タイ政府の取り組み、現地での人権課題や在タイ日系企業に求められる人権尊重について、概観する。
アジア初のNAP策定、国際基準の投資環境整備
2019年にタイ政府は「第一次ビジネスと人権に関する国家行動計画(NAP)(2019-2022)」を閣議決定した。これは、日本政府が2020年に「『ビジネスと人権』に関する行動計画(2020-2025)
」を公表したのに先駆け、アジア地域で初のNAPとなった。2023年に改定版(2023-2027)が公表されている。NAP策定は、法務省が主導した。英国エセックス大学などで人権学を専攻し、タイ法務省で権利自由擁護局国際人権課長を務めるナリーラック・ペヤチャイヤポーン氏が同分野でリーダーシップを発揮しているという(注2)。NAP策定には、タイおよびタイ企業が「ビジネスと人権」の分野で国際基準を満たす、企業活動にとってのレベルプレイングフィールド(公平な競争環境)であることを明示し、タイへの投資を促進する狙いがあった(注3)。
また、タイ政府はEUと自由貿易協定(FTA)交渉を進めている(2025年7月8日付ビジネス短信参照)。EUとのFTAは、タイの現政権にとって最優先事項の1つだ。EU側の提案で、労働者の権利や生物多様性、森林保全、温室効果ガス(GHG)排出量の削減などについて盛り込む方針だ。欧州議会は2025年3月、欧州委員会に対し、タイとのFTA交渉を活用し、不敬罪法の改正や、政治犯の釈放、ウイグル難民の強制送還の停止、全ての中核的ILO条約の批准(注4)を迫るよう求めた。人権尊重を含むサステナビリティーは、タイEU・FTA交渉で論点の1つになる(注5)。
タイはさらに、2023年12月にOECD加盟の意向を表明している。加盟審査には、自国の政治・経済システムを国際基準に適合させていく必要がある。OECDは1976年、「責任ある企業行動に関する多国籍企業行動指針(1.21MB)」を策定した(注6)。「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス
」と併せ、責任ある企業行動についての基本的な国際指針となっている。
また、ESG情報開示を推進する動きも進んでいる。例えば、タイ証券取引委員会(SEC)は2022年、「ワンレポート(タイ語)」と呼ばれる報告書で、財務情報に加えて、人権保護や炭素排出削減を含むESGの取り組み情報を開示することを、上場企業に義務化している。こうした背景から、バンコクに拠点を置く国際機関の関係者によると、タイ政府は人権DDの法制化に強い意欲を持っており、2026年には策定を進めていく方針とみられるという。
人権尊重に取り組むタイ企業、欧米向け輸出には必須に
欧米向け輸出で競争力を保つため、タイ企業でも人権DDの取り組みが進んでいる。特にチャロン・ポカパン(CP)グループ、タイ・ユニオン・グループ、BTSグループホールディングスといったグローバル企業で取り組みが先行している。現地の専門家によると、NGOや国際機関といった幅広いステークホルダーと協力し、積極的な情報開示を行う、欧州基準にのっとったアプローチが特徴だ。
背景には、2015年ごろ、タイの漁業・水産加工業での人身売買や強制労働、搾取や暴力といった人権問題がメディアやNGOによって指摘され、国際社会から厳しい非難を受けたことがある。特に世界最大級の水産企業タイ・ユニオンは、違法漁業・過剰漁獲の根絶や、漁船や養殖場といったサプライチェーン上の労働者の生活向上に向け、抜本的な改革に取り組んできた。同社のサステナビリティー戦略「シー・チェンジ」では、11の2030年までの達成目標を掲げ、水産業界の持続可能性の取り組みをリードしている。目標の1つには、取り扱うマグロの100%を、持続可能な漁業を推進する「MSC(注7)認証」を取得した(または審査中の)漁業由来とすることがあり、2024年までに99%を達成した。また、マルハニチロやニッスイ、CPフーズ(CPF)といった日本・タイを中心とする世界最大手の水産企業7社とともに、SeaBOS(持続的な水産ビジネスを目指すイニシアチブ)に参画。全世界の研究機関や大学とグローバル企業が協働し、構造的な課題解決に取り組む。
タイで高まる外国人労働者の人権リスク、日本企業も留意が必要
このように、改善のための取り組みが進む一方で、タイにおける人権侵害リスクは依然として指摘されている。ジェトロ・アジア経済研究所は2025年3月21日、バンコクで「在タイ日系企業に求められる『人権デューディリジェンス』とは」と題するセミナーを開催し、国連開発計画(UNDP)の佐藤暁子リエゾンオフィサー、在タイ日本大使館の中川藍一等書記官、ILOの白水真祐サステナブルサプライチェーン担当官、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の小松泰介準人権官らが登壇した(2025年3月28日付ビジネス短信参照)。同セミナーやジェトロが実施したインタビューによって、現地の専門家から示されたタイの主な人権リスクは、次のとおり。

- (1)外国人労働者(移住労働者):
- 310万人の正規労働者、ミャンマーからの180万人の非正規労働者が働いている(タイの労働者の7.2%が移住労働者)と推定されている(注8)。自社で雇用していない場合でも、取引先で外国人労働者が働いている可能性が高い。
- 高額な就職あっせん手数料、そのための借金、低賃金、賃金不払い、パスポートの取り上げなど、特有のリスクに留意する必要がある。移住労働者の70%があっせん手数料や関連費用を支払うために借金をしている(注9)。人材紹介業者を介して雇用し、採用手数料や労働者の管理を委託先に丸投げしていると、見過ごしてしまう可能性がある。
- (2)結社の自由に対する制限:
- タイで労働組合を組織できるのは、生まれながらにタイ国籍を持っている労働者のみ。外国人労働者は、自らの意見を代弁する組合を設立することができない。既存の組合に加入したとしても、言語の障壁がある上、雇用主に求める要求事項も異なっている。
- そのため、他国以上に、企業が積極的かつきめ細やかに労使対話を促し、賃金やハラスメントの問題に留意する必要がある。日系企業にとっても大きな潜在的なリスクだ。
- (3)土地の開発、住民移転、地域社会との関係性
- 工場や発電所の建設に当たり、土地買収や住民移転が必要になる場合、住民への補償、強制立ち退き、住居の権利、雇用や医療、教育などへのアクセスの阻害、生態系の破壊などが現地コミュニティーの人々の人権侵害につながるリスクがある。
- (4)人権擁護者(市民団体等)への報復、スラップ訴訟被害
- 人権擁護者に対するスラップ訴訟(注10)が問題となっている。タイNAPでも言及されている。
- (5)労働安全衛生、労働現場での安全対策
- 工事現場や鉱山などの労働現場で、安全器具の適切な使用など基本的な安全対策が実施されていない場合が見受けられる。
欧州の規制対応や取引先からの要請受け、東南アジアでDD実施
バンコクの日系大手法律事務所によると、欧州に拠点を有する、または欧州への輸出を行う日系企業が欧州のサステナビリティー関連規制やそれによる取引先からの要請に対応するため、東南アジアの子会社や取引先に対して人権DDを実施する動きが進んでいる。欧州の規制対応のため、日本企業が東南アジアでコンプライアンス対応を行う「三角形」の対応となっており、東南アジアのサプライチェーンにおけるリスク管理や責任ある原材料調達について、日本本社のサステナビリティー部門や日系企業の欧州拠点からの相談が増えているという。
次に、日系企業がタイで実施する人権DDの取り組みの一例を紹介する。沖電気工業は2024年12月、タイ・アユタヤのプリンター製造拠点で、レスポンシブル・ビジネス・アライアンス(RBA)行動規範(労働、安全衛生、環境、倫理)の順守状況を評価するVAP監査(注11)で、シルバー・ステータスを取得した(沖電気工業ウェブサイト参照
)。セイコーエプソンも、タイ、インドネシア、マレーシア、中国、フィリピンの生産拠点で、プラチナ認証を取得している(セイコーエプソンウェブサイト参照
)。第三者認証の活用は、自社の取り組みの不足点について指摘を受けて改善し、国際基準の順守状況を外部のステークホルダーにも客観的に示すことができる点で、有効な手段の1つだ。また、味の素は、人権リスク評価と人権影響評価を実施し、生産者やサプライヤーとの対話を通じて、人権リスクの特定・評価を行っている(2025年7月1日付地域・分析レポート参照)。
在タイ日系企業、サプライヤーへの浸透が課題
このように、先進的な企業が自社のサプライチェーン上で人権DDを実施することで、そのサプライヤーにも取り組みが求められつつある。一方で、東南アジア拠点では、人権DDの取り組みはまだ浸透していないのが現状だ。ASEANで見ると、進出日系企業の約8割がサプライチェーンの人権問題を重要な経営課題として認識しているものの、人権DDを実施している企業の割合は22.3%にとどまった(注12)。 日本本社側でも、人権尊重の取り組みは加速しており、2024年度に人権DDを実施、また予定、検討している企業は56.0%(前年比15.1ポイント増)に上る(注13)。本社の取り組みが前進することで、日系企業のサプライチェーンが集積する東南アジア拠点を含むグローバルな取り組みも、段階的に進展することが予想される。
人権尊重を強みに、人材確保にも有効
人権尊重への取り組みは、企業が直面する経営リスク(不買運動、投資引き揚げ、取引の停止など)を抑制するだけではなく、中長期的に投資先・取引先としての企業価値の向上や、優秀な人材の獲得・定着にもつながる。東南アジアの日系企業は、地域社会や現地サプライヤーと密接な関係を持ち、多くの雇用を創出、また人材育成にも大いに貢献している。これまで日系企業が「当たり前」に行ってきた取り組みが国際基準の求める人権DDに資する場合も多い。例えば、イスラム教徒の多いインドネシアでは、祈りの時間の確保といった宗教的な配慮を多くの日系企業が行っている。長時間労働の是正や、定期的な健康診断、高い労働安全衛生の基準など、安全で健康的な労働環境の確保も、人権尊重につながる。国際労働基準での確認事項として、厚生労働省の「労働におけるビジネスと人権チェックブック(2.8MB)」も参照を。
また、いかなる企業においても、潜在的な負の影響は常に存在することが前提だ。例えば、きめ細やかな労使対話や内部通報窓口の設置を通し、リスクや負の影響を特定しやすい体制を整えることで、迅速に是正・予防措置を講じることができる。自社の取引先で雇用している外国人労働者が法外なあっせん手数料による借金や賃金の未払いなど、差別的な労働条件に置かれていた場合、「知らなかった」では済まされない。意図的な人権侵害ではなくても、自社のサプライチェーン上で脆弱(ぜいじゃく)な状況に置かれやすい人々の状況を理解し、潜在的なリスクも含めて、人権DDを通じて対処することが重要だ。東南アジアの日系企業にも、「リスクがない」ことを目指すのではなく、現地の人々が直面するリスクを「自分事」として捉え、事業活動の中に組み込んでいくことが求められている。
- 注1:
- NHK「ミャンマー大地震 タイの高層ビル倒壊現場 大規模捜索が終了」(2025年5月11日)、毎日新聞「ミャンマー地震2カ月、タイ倒壊、劣悪労働問題化 出稼ぎ者、保険未加入」(2025年5 月 28 日)など各種報道に基づく。
- 注2:
- 2025年3月20~21日に、バンコクで筆者が実施したインタビューに基づく。
- 注3:
-
山田美和「『ビジネスと人権に関する国連指導原則』にもとづくタイの国家行動計画の策定―なぜタイはアジア最初のNAP策定国となったのか―
」「アジア経済」62(2)2-23(2021年)参照。
- 注4:
- タイは、ILO中核的労働基準のうち、第87号(結社の自由及び団結権の保護条約)、第98条(団結権及び団体交渉権条約)、第155号(職業上の安全及び健康に関する条約)の3条約が未批准となっている。
- 注5:
- EUは、2024年12月に交渉合意したEU・メルコスールFTAでも、強制労働・児童労働の禁止、結社の自由、森林の保全など、責任あるサプライチェーンや人権尊重についての項目を盛り込んでいる。
- 注6:
- 2011年の改定で、人権に対する企業の責任に関する章を新設し、リスクに基づいたDD実施に関する規定が盛り込まれた。
- 注7:
- MSC認証は、水産資源と環境に配慮し、適切に管理された、持続可能な漁業で取られた天然水産物であることを証明する国際的な認証。資源の持続可能性、漁業が生態系に与える影響、漁業の管理システムの3原則について、要求事項を満たす必要がある。
- 注8:
-
IOM(国際移住機関)「Thailand Labour Migration Profile Recruitment and Employment Trends and Risks of Migrant Workers
」(2025年3月27日)参照。
- 注9:
- 注8に同じ。
- 注10:
- スラップ訴訟とは、政府や企業の活動について、請願・陳情・提訴を起こしたり、対応を求めて批判的な意見を表明したりした人権擁護者(市民団体や個人)に対して、それを止めさせるために威圧したり、または報復したりする目的で提起される民事訴訟。人権擁護者の権利や表現の自由が侵害されるリスクがある。
- 注11:
- RBAのVAP監査は、独立した第三者によって実施される。(1)事前レビュー、(2)指摘事項の是正・予防措置の実施、(3)2~5日間の実地監査を受審、(4)指摘事項の是正、再発防止策の策定を経て、完了評価を実施するため、準備から取得までに数か月~数年の期間を要することもある。
- 注12:
- ジェトロ「2023年度海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)」参照。
- 注13:
- ジェトロ「2024年度日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査」参照。

- 執筆者紹介
-
ジェトロ調査部欧州課
川嶋 康子(かわしま やすこ) - 2023年、ジェトロ入構。調査部調査企画課を経て、2025年4月から現職。