米国の小売業界で普及する拡張現実(AR)の動向

2023年9月25日

新型コロナウイルス禍の影響で、小売業界におけるデジタル化が進む中、小売業にデジタル技術を導入して新たなサービスを生み出す「リテールテック」(注)でのイノベーションが急速に進んでいる。リテールテックは、新型コロナ禍以前から小売業界において大きな役割を果たしてきており、電子商取引(EC)の成長と並行して、今後も長期的な成長が見込まれている。本稿では、小売業界における米国の拡張現実市場の現状や企業による活用事例、同市場の課題などについて紹介する。

小売業界における「拡張現実(Augmented Reality、以下:AR)」とは、現実環境に仮想物体を合成した画像をリアルタイムで提供し、まるで実際の空間にその物が存在しているかのように見せる技術である。ARと対比される存在として「Virtual Reality(VR、仮想現実)」が挙げられるが、VRが仮想の世界の中に自らが入りこむような状態や環境を作り出す技術であることに対し、ARは現実の世界を主体として、スマートフォンやタブレット端末などの機器を使って、現実の一部に仮想の情報が表示された状態や、その状態を作り出す技術のことを指す。例えば、スマートフォンのカメラで特定の場所を映すと、現実世界の風景の中にCGコンテンツが表示されたり、映したものの情報や解説が表示されたりするなどのサービスが、一般的にAR技術に該当する。

米国のAR利用者数は2024年までに1億人を突破する見通し

AR技術の活用領域は広範囲にわたり、ゲームなどのエンターテインメント業界をはじめ、製造業や医療分野など、さまざまなビジネス領域でも活用が進んでいる。小売業においてもARの利用は広く浸透しており、今後もさらなる成長が見込まれる。市場調査会社のマーケッツアンドマーケッツによると、小売業における世界のARの市場規模は2028年までに2023年(34億ドル)の約3.4倍(116億ドル)に達する見通しで、同期間における年平均成長率は28.0%と推定されている。

また、調査会社のイーマーケターによると、2020年時点の米国におけるARの利用者数は7,000万人だったが、2024年に1億人を超え、2025年に1億1,030万人に増加すると推計されている(図参照)。これに伴い、利用者の人口に占める割合も2020年の21.1%から、2025年に32.1%まで伸びる見通しだ。

図:米国におけるAR利用者の推移(2020~2025年)
2020年の利用者数・人口に占める割合は7,000万人(21.1%)、2021年は8,040万人(24%)、2022年は8,940万人(26.5%)、2023年は9,710万人(28.6%)、2024年は1億430万人(30.5%)、2025年は1億1,030万人(32.1%)。

出所:イーマーケターのデータを基にジェトロ作成

マーケッツアンドマーケッツは、北米市場の成長を促進する主因として、グーグルの親会社のアルファベットやマイクロソフトなど、同市場を主導する複数のARソフトウェアおよびサービス・プロバイダーが存在することや、小売部門に関連する投資が増加していることを挙げている。また、同地域におけるスマートフォンやタブレット端末などのデバイスの増加が、特にECにおけるAR導入拡大の機会を今後さらに生み出すとしている。

顧客転換率の向上や返品率の低減に寄与

前述のとおり、AR技術の活用はオンラインを中心に今後もさらなる拡大が期待されるが、これまでにも幅広く活用されてきた実績がある。小売業の従来のECサイトの最大の課題として、店頭のように消費者が実際に商品を試すことができない点が挙げられてきたが、小売業者は、ECサイトにARを取り入れ、バーチャル試着などの「商品を購入する前に試せる」という機会を消費者に提供することで、この課題を解決してきた。バーチャル試着はAR技術を活用し、実際に衣服を身につけることなく、オンライン上で実際に商品を試着するような体験を示すものだ。ライブ映像を通してユーザーの体形を表示し、画像化された衣服をユーザーにフィットさせて表示することで、購入を検討している商品のサイズやスタイル、フィット感を確認することができる。ECサイトを構築するショッピファイによると、ARを活用した消費者の顧客転換率は、そうでない消費者の顧客転換率よりも94%高いことが判明している。また、ARは「買う前に試してみる」という没入型のデジタル体験を提供することで、オンライン小売業者が返品率を低減する効果もあるとみられる。

バーチャル試着の一例として挙げられるのが、オンライン眼鏡メーカーのワービー・パーカーが展開する、スマートフォンで顔をスキャンする機能でARを利用した眼鏡の試着サービスだ。同社が提供するサービスは、アップルのiPhone X以降に搭載された3Dフェイスマッピング機能を利用して、アプリ上で眼鏡をかけた様子が細部までリアルに再現される。ユーザーはアプリをダウンロードした上で、試着したい眼鏡を選び、画面を下方向にスワイプすると「バーチャル・トライオン(Virtual Try-On)」が起動し、フロントカメラが起動して画面上の顔に眼鏡をかけた様子が投影される。投影された眼鏡は、顔の向きを変えても、傾けても顔に固定されたままだ。さらに、アセテート製のフレームが光を透過する様子や、金属製の細部が光を反射する様子まで再現される。

ワービー・パーカーにとって、バーチャル試着は、より多くの潜在顧客を獲得することを目的としている。同社のデイブ・ギルボア共同創業者兼共同最高経営責任者(CEO)は「われわれの店舗では、人々が友人や家族と一緒に来店することが多い。顧客は、自撮りした写真をテキストで共有し、ソーシャルメディアに投稿してフィードバックを得ている」とし、同社のアプリにARを導入することによって、同社の店舗に来店する顧客の体験をECサイト上でも再現できる利点があるという。

また、AR技術は実店舗でも導入されており、コーヒーチェーン店のスターバックスは、中国の上海の店舗において、2017年に世界で初めてAR体験の提供を開始した。訪問客は、入店の際にロースタリー(焙煎所)のモバイルアプリをインストールし、スマートフォンのカメラで店内を映すと、その場所についての解説がARで表示される。例えば、スマートフォンを店内にある焙煎(ばいせん)キャスクに向けることで、焙煎されたコーヒー豆が樽(たる)に落ちるアニメーションが表示され、コーヒー豆がどのようにして顧客になじみのあるスターバックスコーヒーに変わっていくかについて、詳細な情報を得ることができる。また、店内の各所にあるバッジを集めると、限定コンテンツにアクセスすることができるといったエンターテインメント要素を体験することもできる。


スターバックス上海の店舗でAR 体験を試す訪問客の様子
(スターバックスの許可を得て掲載)

前述のとおり、AR技術は、商品の疑似体験やエンターテインメント体験を通して、顧客の購入後の不安要素を取り除き、現物が見られないECサイトや実店舗でも購買意欲を高めることができる。他方で、AR技術の発達や利用拡大に伴って、プライバシーの問題や人権侵害についての懸念も高まっている。

プライバシーの問題や人権侵害の懸念で訴訟問題にも発展

米国では近年、データプライバシーについての関心が高まっており、複数の州でこれに関する州法が制定されるとともに、消費者の生体情報プライバシー権の侵害に関する訴訟も発生している。

例えば、イリノイ州では、2008年に生体認証情報および個人情報法(Biometric Information Privacy Act:BIPA)が制定され、同法において指紋や顔認識などの生体認証データを収集する企業は、従業員や顧客からの同意や、その収集、保持、破壊に関する方針の策定についてそれぞれ書面で行うことが義務付けられている。BIPAは15年前に制定された法律だが、イリノイ州最高裁判所が2023年2月に、高額な損害賠償金の可能性を拡大する判決を下したことを受けて、同法に違反している企業を告発する集団訴訟は増加傾向にある。

同州における集団訴訟の例を見ると、2021年9月にイリノイ州の連邦裁判所に提起されたアマゾンに対する集団訴訟では、原告側から、同社のバーチャル試着プログラムを通じて消費者の顔の特徴のスキャンデータを収集したことがBIPAに違反している、との主張がなされた。また、メタ(旧:フェイスブック)に対して2021年2月、写真のタグ付け機能における顔認識技術の使用を巡って集団訴訟が起こされ、原告側から、ユーザーの同意なく顔認識データを収集したことで、BIPAに抵触する、との主張がなされていた。本訴訟では、メタが原告団に対して6億5,000万ドルの和解金を支払うことになり、米国のプライバシー侵害に対する訴訟の中でも、過去最大規模の訴訟の1つとなった。

イリノイ州以外にも、多くの州や都市で生体認証によるプライバシー保護法が制定されており、バーチャル試着技術の利用に適用される可能性がある。また、カリフォルニア州、メリーランド州、ニューヨーク州など、BIPAを参考とした包括的な生体認証プライバシー法を検討している州も増えている。オンラインショッピングが広く普及した今般、訴訟リスクの増大は、小売業者にとって新たなコンプライアンス上の懸念事項となりつつある。

規制動向や消費者プライバシーの保護には十分な留意が必要

こうしたデジタル技術の活用は、今後もさらに進化すると見込まれる中で、消費者データの利用に関する同意の取得や、入手したデータを安全に保管するためのサイバーセキュリティーの確保について、小売企業には従来以上に責任が求められる傾向にある。このため、企業は、最新の規制動向や消費者プライバシーの保護に関して、米国政府機関から発行されるガイダンスについては十分に注意する必要がある。

なお、米国におけるリテールテック市場の最新動向や同市場を主導する企業の動向については、ジェトロの米国小売業におけるリテールテック市場の動向をまとめた調査レポート「米国小売業におけるリテールテック市場の動向調査」を参照。


注:
実店舗で販売する小売店やE コマース業者、D2C企業などの小売業者の事業管理・最適化を実現するテクノロジーソリューションのことを指す。
執筆者紹介
ジェトロ・ニューヨーク事務所 調査部
樫葉 さくら(かしば さくら)
2014年、英翻訳会社勤務を経てジェトロ入構。現在はニューヨークでのスタートアップ動向や米国の小売市場などをウォッチ。