量子コンピュータに関するデンマーク政府と関連組織の動向
2025年9月25日
デンマーク政府は、2023年から2027年の5年間で、量子エコシステムの強化に総額10億デンマーク・クローネ(約231億円、1デンマーク・クローネ=約23.1円)を割り当てている。小国のプロジェクトとしては高額な投資だ。その結果、同国の量子コンピュータは世界でも高い技術を誇る。
特に、ナノ構造設計・製造や材料工学、極低温での計測といった分野で優れた研究基盤があるのが、注目点だ。それらが、量子コンピュータの実装に直結している。また、同国では、既存企業に加えて、大学の研究機関発のスタートアップが多く誕生している。研究機関と企業が強く連携することで、研究成果を経済価値に転換する重要な役割を担っている。
本稿では、デンマークの量子コンピュータ開発の現状を整理する。その上で、国際連携、政策動向、研究機関、スタートアップといった観点から考察する。
誤り耐性量子コンピュータ実現前からエコシステム強化
デンマーク輸出投資基金(EIFO)と、ノボ・ノルディスク財団は2025年7月17日、8,000万ユーロを投じ、量子技術を活用してイノベーション創出を後押しするための企業「キューノース(QuNorth)」を立ちあげたと発表した。前者のEIFOは、デンマークの産業と輸出拡大を支援するため、政府が出資する機関。また後者は、製薬大手ノボ・ノルディスクなどを傘下に置き、イノベーションのため投資する財団だ。
同社は量子コンピュータ「マグネ(Magne)」を、商業ベースで調達し、立ち上げ、運用する。マグネは、量子コンピュータとして処理能力が世界最高級と言われる。サプライヤーとして、米国企業2社、(1)アトム・コンピューティングと(2)マイクロソフトが協力している(両社とも、デンマークに拠点あり)。具体的には、(1)が量子コンピュータのハードウエアを提供し、(2)がソフトウエアを実装する。
一方でノボ・ノルディスク財団には、「誤り耐性量子コンピュータ」を、2034年までにコペンハーゲン大学と協力して開発する計画がある(2022年9月発表)。量子コンピュータは一般に、外界の影響を受けやすい。そのため、エラーを発生しがちで、依然として最大の課題の1つだ。仮に当該コンピュータが実現すると、誤りを訂正しながら計算することでそうしたエラーを克服できる。
では、キューノース設立の意義はどこにあるのか。この点、ノボ・ノルディスク財団のチーフ・サイエンス・オフィサー(自然科学・技術科学・学際的研究分野担当)のレネ・オデシェ-氏は、「誤り耐性量子コンピュータの実用化は2030年以後にならざるを得ない。それまでの間、キューノースの運用する量子コンピュータ『マグネ』が科学者や企業に、最新鋭の量子技術へのアクセス機会を提供する」「北欧の当該分野エコシステムにあって、技能の向上に大きく貢献する」と指摘した。加えて、同コンピュータは「量子力学の基礎研究にも寄与。誤り耐性量子コンピュータのためのアルゴリズムの開発や検証にも活用できる」と述べている。
このように、量子分野での取り組みが目立つデンマークだ。その背景には、産官学が同分野での技術革新と活用を重視し、関連するエコシステムが綿密に形成されていることがある。
デンマーク政府による取り組み、欧州との連携政策
デンマーク政府は2023年6月、量子技術戦略第1部(Strategy for Quantum Technology: Part 1)を発表。さらに9月には、第2部(Strategy for Quantum Technology: Part 2)を発表した。
第1部では、特に研究開発・イノベーション促進に焦点を当てた。2023年から2027年の5年間で総額10億デンマーク・クローネを割り当てることを約束している。また、同政府は国際協力も重要な優先事項として、欧州諸国とも積極的に連携している。量子戦略の中では、EUの枠組み活用の重要性に触れ、その一例としてEUの「量子技術フラッグシップ(Quantum Technologies Flagship)」に言及している。これは、長期的な研究・技術革新イニシアチブで、2018年からの10年間、数百人の量子科学研究者の研究を支援することを目的にする。EUからも、10億ユーロの予算配分を見込んでいる。
第2部では、社会、経済、安全保障、国際協力の発展のため、デンマークで台頭する量子エコシステムの強化に焦点を当てた。2024年から2027年にかけて別途、2億デンマーク・クローネを充てる。最も重要な取り組みの1つが、クウォンタム・ハウス・デンマーク(Quantum House Denmark:QHD)の設置だ。量子関連企業がQHDの近くに集積することで、コペンハーゲン大学の研究コミュニティーをはじめとした関連エコシステムに容易にアクセスすることが可能になる。政府はさらに 、量子技術開発のための長期的な資金需要に応えるため、EIFO内に量子分野の基金を設立し、QHDやNATOの北大西洋防衛イノベーション・アクセラレータ・アライアンス(DIANA: Defense Innovation Accelerator for the North Atlantic 、注1)を支援するとした。また、バイオ・イノベーション・インスティテュート(BII、注2)はDIANAと連携し、初期段階のスタートアップを支援して、量子分野のイノベーションを推進している。
2023年9月には、欧州半導体法(European Chips Act、2023年8月2日付ビジネス短信参照)が発効した。同法では、「最先端の次世代半導体と量子技術の開発と展開を可能にすることで、EU における高度な設計、システム統合、半導体製造能力を強化する」ことを掲げた。量子分野では、量子チップ分野の技術開発とエンジニアリング能力構築に焦点が当たる。デンマーク国内では、同法律に基づく資金援助を受けて、2025年2月に半導体コンピテンス・センター(Chips Competence Centre)を設立した。同センターは、デンマークや欧州の中小企業やスタートアップを最先端の施設や研究に基づく専門知識につなぐ中心的ハブとして機能し、特に量子チップの設計・製造で企業の敷居を下げることを目指している。量子チップにより、かつてないほどの計算能力を実現し、セキュリティーを強化することで、ヘルスケア、エネルギー、人工知能(AI)などの分野で画期的な進歩を起こすのが目的だ。
デンマークの主要研究機関の量子技術
デンマークで量子研究の中核になる研究機関は、コペンハーゲン大学のニールス・ボーア研究所(Niels Bohr Institute)とデンマーク工科大学(Danish Technical University:DTU)だ。
ニールス・ボーア研究所内には、国内で量子半導体研究の中核を担う量子デバイスセンター(Center for Quantum Devices:QDev)を置いている。同センターでは、半導体、超伝導体、絶縁体などからなるハイブリッド材料のナノ構造の量子現象と電子特性を中心に、研究を進めている。その大部分を、将来の量子コンピュータの基本ユニットとなり得る固体量子ビットの開発研究に費やしている。量子ドットの研究では、固体中の基本的な相互作用を理解し、量子シミュレーションや量子コンピューティングへの応用を導くことを目的に、さまざまな材料系での量子ビットの実験的実装に焦点を当てている。(1)高品質の量子材料へのアクセス、(2)センター内外のナノ加工設備、(3)ゲート電圧パルスによる局所的量子ドット結合、(4)超伝導共振器を活用した長距離量の量子ドットの結合技術を提供できることが強みだ。また、100ミリケルビン以下の希釈冷凍機で、最大6 テスラの高磁場という実験環境を提供。他研究分野への応用を期待できる高周波制御・測定技術を活用しているという。
また、同研究所は2017年、マイクロソフトと長期的な戦略的研究パートナーシップを締結。QDev内に「マイクロソフト量子ラボ・コペンハーゲン(Microsoft Quantum Lab Copenhagen)」を設立した。2019年にはDTUが加わることでパートナーシップを拡大し、「マイクロソフト量子物質ラボ (Microsoft Quantum Materials Lab)」を新たに設立した。同ラボは、世界初の拡張可能な量子コンピュータのハードウエアプラットフォームの量子物質を構築することを目指している。このような大学とマイクロソフトのコラボレーションは、公共と民間の連携によって実現できた科学研究の画期的な例としている。また、これらデンマークの研究センターは、米国のパデュー大学やカリフォルニア大学サンタバーバラ校、オランダのデルフト工科大学、オーストラリアのシドニー大学と並んで、マイクロソフトの5大量子ラボの1つに当たる。
連携はこれにとどまらない。ニールス・ボーア研究所は2023年、DIANAのテストセンター・ネットワークの一部に位置づけられた(当該ネットワークの狙いは、研究者や起業家がコンセプトや技術を検証することにある)。加えて前述のとおり、ノボ・ノルディスク財団から2023年から2034年までの12年間で15億デンマーク・クローネの助成金を受けている。目指すのは、2034年末までに本格的な誤り耐性型汎用量子コンピュータを構築することだ。
一方、DTUには、量子、半導体、マイクロエレクトロニクス開発ツールの提供に特化した技術センター「ナノラボ (NanoLab)」がある。NanoLabは、ナノサイズの微細な構造物を製造する技術開発と特性評価を行う国立センターだ。欧州での研究開発拠点の確立を目指す企業に、最先端の施設を提供する。このナノラボも前述のニールス・ボーア研究所とともに、DIANAがテストセンターに位置付けている。DTUでは全学部・センターの3分の1以上が何らかのかたちで量子研究に携わっているという。2022年12月にナノラボ内に新設した量子センターは、量子分野の大学の専門性を集結する共同ゲートウエーとして機能している。
なお同ラボでは、電子機器を製造していない。しかし、半導体業界に起源を持つツールとプロセスを使用し、量子技術の基礎研究用部品から小規模チップ製造まで、あらゆる技術成熟度レベル(TRL)を網羅している。また、同ラボは、マイクロソフト、KLAテンコール(KLA Tencor)、グルンドフォス(Grundfos)、アクセリンク(Accelinknk)などの大手企業の支援を受け、40社以上の企業を生み出し、デンマークにおけるナノテクノロジーを基盤とした産業の構築にも大きく貢献してきた。

DTUの例からもわかるとおり、デンマークではスタートアップを含む企業が研究機関と強く連携して、研究成果を経済価値へと転換する重要な役割を担っている。例えば、スパロークウォンタム(Sparrow Quantum)は、ニールス・ボーア研究所の研究グループからのスピンアウト企業だ。チップ上で単一光子(注3)を生成する技術に強みを持つ。また、南デンマーク大学の量子数学研究センター(Centre for Quantum Mathematics)からのスピンアウト企業としては、キューパーパス(Qpurpose)がある。企業向けに量子アルゴリズムやソフトウエアの開発サービスを提供し、エネルギーや金融などの分野で既に多くの活用事例がある。現在はノボ・ノルディスクと連携し、今後、医療分野での量子コンピュータ技術の活用推進を目指す注目の企業だ。
今後の展望
既述したとおり、学術的蓄積と産業応用の双方で、デンマークの量子技術は成長を遂げている。欧州および国際的な研究・産業のハブとして地位を築いてきたかたちだ。将来的には、グリーンテクノロジーや医療技術への波及効果も期待されていることから、デンマークの国家戦略としてさらなる投資と制度設計が必要になる。
- 注1:
- NATO加盟国全体の研究者や起業家と連携し、技術の開発を支援するNATOの機関。DIANAはテストセンターを有し、大学や産業界、政府、スタートアップ、イノベーターと協力して、重要な防衛や安全保障の課題を解決する。
- 注2:
- ノボ・ノルディスク財団が出資するライフサイエンス分野のアクセラレータ。量子分野のプログラムを有している。また、このプログラムはNATOのDIANAアクセラレータプログラムの1つとして位置づけられている。
- 注3:
- 超高速演算が可能な光量子コンピュータなどの実現には、光子を1つずつ発生させることが重要。同社のチップは光量子技術をスケールアップするために有効なコンポーネントとしている。

- 執筆者紹介
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ジェトロ・デュッセルドルフ事務所
安岡 美佳(やすおか みか)(在デンマーク) - 京都大学大学院情報学研究科修士、東京大学工学系先端学際工学専攻を経て、2009年にコペンハーゲンIT大学でコンピュータサイエンス博士取得。2006年からジェトロ・コペンハーゲン事務所で調査業務に従事、現在、レジデントエージェント。