インペリアル大学教授に聞く、英国の創薬バイオテック市場の魅力

2025年12月26日

英国政府は2025年6月、「現代産業戦略(2025年6月25日付ビジネス短信参照)」を策定し、今後の成長産業セクターの1つにライフサイエンスを選定した。また、2025年7月に発表した産業セクター別のプランには、臨床試験の承認にかかる期間を150日以内に短縮することなどが盛り込まれ、今後の創薬エコシステムの拡充が期待される。これにより、投資家からの資金を呼び込むことを目指す狙いだ。

こうした政策の変化は、日本の創薬バイオテック企業が英国参入を目指す際のビジネスチャンスにもつながる。一方で、英国エコシステムは日本との相違点も多く、参入に苦労する日本のスタートアップも多い。

2002年よりインペリアル大学のNational Heart and Lung Institute (NHLI)で呼吸器疾患の薬理学的研究に従事し、自身もスタートアップの立ち上げに携わるなど英国市場で豊富な経験を有する伊藤一洋教授に、英国市場の魅力や参入にあたっての留意点について聞いた(取材日:2025年8月31日)。

「失敗を恐れず挑戦できる」英国の研究・起業家文化

質問:
英国で研究者、そして起業家に至るまでの経緯は。
答え:
日本の製薬企業で研究に従事する中、呼吸器分野の世界的権威が活躍する英国への渡航を決意。2002年にインペリアル大学へ研究の拠点を移した。国を選んだというよりも、恩師を選んだ結果だった。
当時、英国でヒト細胞を用いた研究の可能性に魅力を感じて研究に没頭。成果が認められ、2005年に国際的医学雑誌のニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン(The New England Journal Of Medicine)へ論文が掲載されるなど、国際的な評価を得ることができた。製薬企業からの資金提供も受け、大学内に研究チームを形成するに至った。
その後、英国の大手製薬会社グラクソ・スミスクライン(GSK)で呼吸器領域のトップを務めていた人物が退職し、起業を志す中で2007年に共同創業した。アカデミアと製薬業界の人材が融合したスタートアップは当時としては珍しく、投資家の注目を集めた。
英国では、年齢や肩書きに関係なく、挑戦する人にチャンスを与える文化が根付いている。若手を育てる志向が強く、失敗を恐れない風土がある。能力のある若手には自然と学術界のみならずビジネスの機会も広がっていく。こうした環境が、研究者から起業家への転身を後押ししている。

日英エコシステム成熟度と教育の違い

質問:
スタートアップを支える、日英のエコシステムの違いから見える課題は。
答え:
英国には既に多数の成功事例が存在しており、それが新たなスタートアップのモデルケースとなっている。特に創薬分野では、米国食品医薬品局(FDA、注1)承認を見据えた事業計画が初期段階から組み立てられる環境が整っており、海外との垣根がない。また、創薬バイオテック領域における人材の豊富さが際立っており、創業時点からグローバル市場を前提にチームを組成できる。
一方、日本の創薬分野におけるスタートアップは少数精鋭型で、限られた人員で事業を展開する傾向が強い。まず日本国内の市場で成果を出し、その後に海外展開を目指す傾向があるが、マーケット調査に関しても不十分だ。結果として事業展開のスピードが遅れることもある。創業期からグローバル展開を前提にチーム組成をするべきだが、そのための人材プールが不足している。
教育面でも違いがみられる。英国の大学教育ではディベートやプレゼンテーションを通じて、論理的思考と発信力が鍛えられる。一方、日本では失敗をよしとしない文化が根強く、挑戦へのハードルが高い。ピッチ(注2)でも相手に何を求めているのかが明確でないケースが多く、一方通行になりがちだ。さらに、アカデミア発のスタートアップが用意するデータと、製薬企業が求めるデータとの間のギャップも課題。事業化に向けた実務的なデータの準備が求められる。

英国市場の魅力と課題

質問:
創薬バイオテックにとって英国市場の魅力はなにか。
答え:
英国における魅力としては、以下が挙げられる。
  1. グローバルな人材循環の加速:第2次トランプ政権以降、ハーバード大学などからの人材流入はカナダに次ぐ規模。
  2. 創業に関する法務手続きが簡便:登記手続きはオンラインで24時間以内に完了する。小規模企業に対する法人税率は19%と比較的低い(注3)。
  3. 雇用の柔軟性:スポットコンサルやフリーランス人材を活用することで、フルタイム雇用に頼らずとも高い専門性を確保できる環境が整っている。
  4. その他:英語でのコミュニケーションが可能。自然災害が少なく、政治も比較的安定している。ロンドンを中心とした金融インフラの充実も、スタートアップにとって大きな魅力となっている。
一方、課題としては、シードラウンド(注4)から、シリーズAに行きつくまでの資金調達面での課題が挙げられる。それ以降のスケールアップに伴う資金調達にも依然として課題が残るため、シリーズB以降の事業の拡大フェーズでは米国市場への展開が視野に入ることが多い。

創業を見据える研究者としての心構え

質問:
研究者としてスタートアップの事業にどのように関わるべきか。
答え:
技術を社会に届けるというゴールをさまざまなステークホルダーと共有し、自分の立ち位置を明確にすることが重要。日本の研究者は複数の役割を担う傾向があり、コミットメントの水準が研究なのか会社運営なのか、曖昧になりやすい。例えば教授が経営の主導権を握るケースもあるが、その教授のビジネス経験が乏しい場合、事業の進展が阻害されることもある。投資家目線に立てば、経営陣がコミットしているかも重要な投資の判断基準。研究者が経営も兼任することで、投資家が出資を見送ることにもつながりかねない。しっかりと自分自身の立ち位置を理解しておく必要がある。

日本市場進出における制度的・実務的な課題

質問:
海外から見る日本市場参入への障壁は。
答え:
日本医療研究開発機構(AMED)が医薬品の実用化開発に補助金を提供する創薬ベンチャーエコシステム強化事業外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます は魅力的に映る一方、海外のスタートアップにとって申請には高いハードルが存在する。特に申請書類の作成が大きな障壁だ。申請者が日本国内に住所を有する必要がある。また、資金が日本国内で循環することも求められるため、受託製造機関(CMO)や受託開発製造機関(CDMO)は日本国内の企業と連携するように求められることもある。既にスケールアップされた製造体制を海外で構築している場合、日本の体制に切り替える必要があり、技術面・運用面で課題が生じる。
また、モダリティー(注5)の複雑化が進む中で、日本のCMO、CDMOもグローバルスタンダードに追いついていく必要がある。最も重要なのは、FDAとの交渉や承認を通した経験の有無。一部の日本の企業は経験が豊富であるように感じるものの、今後さらに多くのプレイヤーが登場することが望まれる。
加えて、医師主導治験(注6)を活用して海外のシーズを呼び込む取り組みは、海外の企業を誘致する局面において一定の機能を果たしていると考えられる。その一例として、東京科学大学にも海外シーズを呼び込む機能が備わっており、臨床試験をオープンに実施できる体制が整っている。ただし、新規モダリティーに臨床現場が慣れるまでには時間を要するだろう。

日英の連携強化と起業家育成プログラム

質問:
今後日英の連携についてどのように考えるか。
答え:
グローバルな事業展開がノーマルになるべきで、日本での創業という枠組みにこだわる必要はない。日本人だけで技術を開発し、海外に展開するという発想だけでなく、海外の人材を積極的に呼び込み、ともに創業することで、自然とグローバルな事業へと成長していくようになる。優秀な人材を日本に送り込むことが、エコシステムの質を高めることにつながる。また、創薬研究の世界で活躍する日本人の女性はいるものの、創業経験のある女性人材が不足している点も課題だ。
日英における連携は加速している。2025年5月、英国の研究段階の細胞・遺伝子治療を商業化可能な製品へと橋渡しする組織であるセルアンドジーンセラピー・カタパルト(Cell and Gene Therapy Catapult)と、2024年に産官学連携を促す拠点として大阪にオープンした中之島クロス(Nakanoshima Qross)は、細胞・遺伝子治療分野における国際連携を強化するための包括的な覚書(MoU)を締結した。両機関は、先端医療の産業化を推進するハブとして、スタートアップ支援、人材交流、共同研究、イベント開催などを通じて、日英間のイノベーション共創を加速させることを目指している。今後英国から優秀な人材が日本に流入し、日本国内での起業が活性化することが期待される。

伊藤氏/ジェトロ・ロンドン事務所にて(ジェトロ撮影)

注1:
米国の食品医薬品局(Food and Drug Administration: FDA)で、医薬品・医療機器・食品などの安全性と有効性を規制する機関。
注2:
スタートアップや研究者が投資家や企業に向けて、事業の魅力や投資価値を短時間で伝えるプレゼンテーション。
注3:
小規模企業(課税対象所得が5万ポンド(約1,035万円、1ポンド=約207円)以下)の英国法人税率(Corporation Tax)は19%と定められている。
注4:
ベンチャー企業に対して投資する段階を示す。ベンチャー企業のステージに応じて、プレシードラウンド(アイデア段階)、シードラウンド(プロトタイプ開発段階)、シリーズA(創業期)、シリーズB(成長期)、シリーズC(成熟期)、その後もシリーズD(大規模成長・事業安定期)と上がっていく。
注5:
創薬や医療技術における治療手段の種類や形式を指す。医薬品であれば、低分子医薬品や抗体医薬品などの分類が該当する。
注6:
製薬企業ではなく、医師や研究機関が主体となって実施する臨床試験。新規治療法や薬剤の有効性を検証する際に活用される。
執筆者紹介
ジェトロ・ロンドン事務所
榊原 達也(さかきはら たつや)
2023年10月からジェトロ・ロンドン事務所勤務。