ジェトロ世界貿易投資報告 2025年版
第Ⅲ章 世界の通商ルール形成の動向
第2節 多国間貿易体制の現状と課題 第1項 WTOにおけるルール形成
WTOへ強い不満を表明する米国
2025年に設立30周年を迎えたWTOだが、WTOを中心とする多国間主義に基づく自由貿易体制、通商秩序は瓦解の危機に瀕している。2025年1月に誕生した第2次トランプ政権はWTOに対する批判を強めており、厳しい姿勢を鮮明にしている。米国通商代表部(USTR)が2025年3月に発表した「2025年の通商政策課題と2024年の年次報告」では「設立30周年を迎えるWTOと米国の利益」と題されたセクションが設けられた注1 。その中で、USTRは「WTOの実行可能性と持続可能性はますます疑問視されるようになっている」と指摘している。
米国が問題視するのは、WTOにおける貿易自由化交渉の失敗であり、他国が米国ほどの自由化を達成していない点だ。同報告書によれば米国の最恵国(MFN)税率が平均3.3%である一方、インドは17.0%、韓国が13.4%にとどまっている。また、中国の補助金や国営企業などの非市場経済がもたらす課題に、WTOが対処できていないことも批判しており「我慢にも限界がある」と強い文言で不満を表明した。米国はWTOにとって最大の資金拠出国だが、2025年3月にロイターは、トランプ政権がWTOへの拠出を一時凍結したと報じている注2 。
他方、米国を除く諸外国からは多国間貿易体制の回復を求める声が上がっている。2025年5月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)貿易相会合では、米国こそ名指ししていないものの、「国際貿易体制が直面する根本的挑戦を懸念する」との共同声明を全会一致で採択した注3 。また、同共同声明においては、「貿易課題の進展におけるWTOの重要性を認識し、国際貿易体制の重要な一部として、WTOで合意されたルールを認識する」、「今日的な貿易課題について、WTOでの議論を深化させる努力を称賛する」と記載された。
日本政府も、WTOを中核とする、ルールに基づく自由で開かれた多角的貿易体制を支持する態度を表明している。2025年5月のンゴジ・オコンジョ=イウェアラ事務局長の訪日に当たり、日本政府はWTO事務局と共同プレスリリースを発出注4 。日本政府は、WTOと多角的貿易体制の重要性を強調しつつ、(1)複数国間協定によるものを含む、現在の状況に対処するためのルール形成機能の強化、(2)紛争解決制度改革、(3)WTO協定の履行状況の監視と審議の機能の強化の3つの柱に基づくWTO改革を推進するよう呼びかけた。
なお、中国の何立峰副首相も同月にスイス・ジュネーブでオコンジョ事務局長と会談を行い、多国間貿易の重要性を強調し、米国との立場の違いを鮮明にしている。何副首相は、「WTOを中核とする多国間貿易システムは国際貿易の基礎であり、世界経済のガバナンスにおいて重要な役割を果たしている」と述べ、「WTOの枠組みで対等な対話を通じて相違と紛争を解決し、多国間主義と自由貿易を共同で守り、世界のサプライチェーンの安定化・円滑化を促進すべきである」と述べている注5 。
MC14に向けてWTO改革が最重要課題
次回の第14回WTO閣僚会議(以下、MC14)は、2026年3月26~29日にカメルーンの首都ヤウンデで実施される予定である。MC14の最重要課題は、前回会合から引き続き、WTO改革である。ほかに農業・漁業補助金、電子的送信に対する関税不賦課、WTO電子商取引協定、WTO投資円滑化協定などの論点がある。
WTO改革では、上級委員会の機能回復、高額な訴訟費用(途上国・地域が利用しにくい)などの課題が焦点となっている。WTOの紛争解決制度では、2019年12月から紛争処理の最終審に当たる上級委員会が機能停止に陥っている。米国は、WTO上級委員会がWTO協定で与えられた権限を逸脱し、法的解釈を通じて加盟国の合意を超えた新しいルールを作っていると批判しており、裁判官に当たる上級委員の選任・再任を阻止している(上級委員会は7名から構成され、一事案につき3名が審理を担当するが、2019年12月に上級委員が3名から1名に減って審査が不可能となり、2020年11月に最後の委員の任期が終了した)。
このため、小委員会(パネル)を設置したとしても、上級委に上訴することで紛争案件はペンディングされる(いわゆる「空上訴」)。空上訴は、これまで25件(2024年12月末時点)に上っている。日本がパネルを設置したインドの鉄鋼製品に対するセーフガード措置(DS518)、韓国のステンレス棒鋼に対するAD措置(DS553)、インドのICT製品関税引き上げ措置(DS584)についても、空上訴のため審理待ちの状態が続いている。WTOの紛争処理件数は、機能停止前の半分以下に減少しており、紛争解決機能への信任が失われつつある(図表Ⅲ-30)。
- 出所:
- WTO “Dispute settlement”から作成
一定の役割を果たすMPIA、マレーシアや英国も参加
WTO上級委員会が機能停止する中、WTO加盟国の一部では、暫定的な措置として多国間暫定上訴仲裁アレンジメント(MPIA)の利用が進んでいる。参加国間の紛争について、パネルの判断を不服とする場合には、機能停止中の上級委員会に上訴するのではなく、仲裁により解決することを定める仕組みだ注6 。2020年4月に立ち上がり、日本も2023年3月に参加している。MPIAは上級委員会の代替する上訴手段として57カ国・地域が参加している。2025年5月にパラグアイ注7 とマレーシア注8 が、6月に英国注9 が新たに加わった。
実際にMPIAによる仲裁判断が行われたのは2件注10 に留まっているが、仲裁判断に至らずとも、MPIA参加国同士の紛争では、パネル判断を不服とする場合、上級委に「空上訴」しないという合意がとれているため、MPIAは一定の役割を果たしている(図表Ⅲ-31)。例えば日本が申し立てた、日本製ステンレス製品に対するAD措置(DS601)では、日中両国ともMPIAに参加し、互いに空上訴を行わないことを約束していたため、中国は空上訴を行わず、措置の撤廃に至った注11 。
| MPIAの関わり | 案件名 | 申立国・地域 | 結論 |
|---|---|---|---|
| MPIAによる仲裁判断 | コロンビア-EU産冷凍ポテトフライへのAD措置(DS591) | EU |
2022年12月 仲裁判断 |
| MPIAに準拠した仲裁判断 | トルコ(注)-医薬品の生産・輸入・販売に関する措置(DS583) | EU |
2022年7月 仲裁判断 |
| MPIAへ不服申立てせずに最終決定、撤回、失効、紛争解決した案件 | カナダ-商用航空機に関する措置(DS522) | ブラジル | 2021年2月和解 |
| カナダ-ワイン販売に関する措置(DS537) | オーストラリア | 2021年5月和解 | |
| EU-鉄鋼セーフガード措置(DS595) | トルコ | 2022年5月パネル報告書 | |
| コスタリカ-アボカド輸入に関する措置(DS524) | メキシコ | 2022年5月パネル報告書、措置撤廃 | |
| 中国-カナダ産キャノーラに対する検疫措置(DS589) | カナダ |
2022年8月 パネル中断 |
|
| 中国-オーストラリア産大麦に関するAD・CVD措置(DS598) | オーストラリア |
2023年8月 和解、措置撤廃 |
|
| 中国-オーストラリア産ワインに関するAD措置(DS602) | オーストラリア |
2024年3月 和解、措置撤廃 |
|
| オーストラリア-中国産品に対するAD・CVD措置(DS603) | 中国 |
2024年4月 パネル報告書 |
|
| 中国-日本製ステンレス製品に対するAD措置(DS601) | 日本 |
2024年7月 措置撤廃 |
|
| 当事国がMPIA参加メンバーである案件 | EUによるブラジル産鶏肉調製品の輸入に関する措置(DS607) | ブラジル |
2021年11月 協議開始 |
| 中国によるリトアニア製品に対する通関拒否(DS610) | EU |
2025年1月 パネル停止 |
|
| 中国-知的財産権の行使(DS611) | EU |
2025年4月 仲裁申し立て |
- 注:
- トルコはMPIAに不参加であるものの、当事者間の合意により仲裁による上訴は可能。
- 出所:
- WTOおよび各種資料から作成
トランプ政権発足以降、米国を被申し立て国とする紛争解決協議要請が増加
米国により機能停止に陥っているWTOだが、第2次トランプ政権の一連の関税政策(鉄鋼・アルミニウムに対する関税、相互関税など)を巡り、複数の国・地域がWTO関連会合の場で米国を批判する動きが続いている。2025年5月のWTO市場アクセス委員会では、EU、カナダ、ノルウェーが「関税による世界貿易の分断と世界的なコスト」と題した議題を提出した。13カ国が発言し、一方的な貿易措置への懸念を表明した 。
米国は一連の関税について、国家安全保障措置に該当し、国家安全保障例外条項の対象だと主張しており、WTOに対して通知を行っていない。他方、EUやインドは、トランプ政権による鉄鋼・アルミニウム関税の引き上げについて、事実上のセーフガード措置だと主張し、WTOセーフガード委員会での協議を要請した。米国は「これらの措置はセーフガード措置ではなく、したがって、セーフガード協定に基づく協議を行う根拠はない」として、協議要請を拒絶している注12 。
また、トランプ政権が誕生した2025年1月以降、米国を被申し立て国とする紛争解決協議要請が増大している。2025年5月末時点で8件の申し立てが行われており(前年同期は3件)、そのうち5件が米国の一連の追加関税に対する案件となっている。WTOの場において、米国との協議は平行線をたどっているが、今後も米国の関税措置に対する協議要請は増えるとみられる(図表Ⅲ-32)。
| 案件名 | 協議要請日 | 申立国 | 被申立国 |
|---|---|---|---|
| 中国-標準必須特許(SEP)に係る世界規模のライセンス条件の措置(DS632) | 2025年1月20日 | EU | 中国 |
| 米国-中国からの輸入物品に対する追加輸入関税(DS633) | 2025年2月4日 | 中国 | 米国 |
| 米国-カナダからの輸入物品に対する追加輸入関税(DS634) | 2025年3月4日 | カナダ | 米国 |
| 米国-カナダからの鉄鋼・アルミニウムに対する追加輸入関税(DS635) | 2025年3月12日 | カナダ | 米国 |
| 中国-カナダからの特定の農林水産品に対する追加関税(DS636) | 2025年3月20日 | カナダ | 中国 |
| 米国-カナダからの自動車および同部品の輸入に対する追加関税(DS637) | 2025年4月3日 | カナダ | 米国 |
| 米国-中国からの輸入にかかる全世界および特定国への追加関税(DS638) | 2025年4月4日 | 中国 | 米国 |
| EUおよび加盟国-炭素国境調整メカニズム(DS639) | 2025年5月12日 | ロシア | EU |
- 出所:
- WTOおよび各種資料から作成
WTO電子商取引協定のテキスト案が公表
また、WTO、特に米国が関連する重要な論点として、電子商取引(EC)とデジタル課税に関するルールがある。デジタル課税については本章第3節で詳述するが、WTOにおいては電子的送信に関税を課さない現在の慣行(モラトリアム)があり、1998年以降、WTO会合において継続して延長されてきた。MC13では、関税不賦課モラトリアムを維持することに同意し、2026年3月31日もしくは次回のMC14開催日のいずれか早い日まで延長する。本モラトリアムは、法的枠組みを有さない政治合意としての時限付き(2年ごと)措置であり、MC13においてはインド、インドネシア、南アフリカ共和国が延長に反対した(最終的には合意)。このうちインドネシアは、関税率は0%としつつも、ソフトウエア、電子データ、電子送信を介して配信されるマルチメディアデジタル商品に関税を課す制度を2023年に導入し、具体的な申告手続きまで規定されている注14 。2026年3月末までは関税率の引き上げは行われない可能性が高いが、引き続き注視していく必要がある。
WTOでの新たなルールづくりに向けた有志国間交渉のうち、電子商取引については、WTO電子商取引協定で進展があり、2024年7月に同協定の「安定化したテキスト(Stabilised Text)」が公表されるに至った注15 。同協定における交渉では、2017年のMC11にて日本、オーストラリア、シンガポールがWTO電子商取引有志国会合を立ち上げ、共同声明イニシアチブ(JSI)が形成された。2019年にWTOにおいて電子商取引に関する有志国間交渉が始動し、2025年6月時点で91カ国・地域が交渉に参加している。日本は、オーストラリア、シンガポールとともに、共同議長として交渉をリードしてきた。
安定化したテキストは38条文から構成され、(1)貿易書類の電子化や規制の透明化等を通じた電子決済の促進による電子商取引の貿易円滑化、(2)政府データの公開やインターネットのアクセス・使用を通じた開かれた電子商取引の確保、(3)サイバーセキュリティ、オンライン消費者保護や個人情報保護による電子商取引の信頼性向上に係る規律を含む。特に第11条には、産業界からの要望である電子的送信に対する関税賦課の恒久的な禁止も含まれている。他方、越境データ流通促進、データの国内保存要求禁止、ソースコードや暗号の開示要求禁止については含まれておらず、将来的な交渉での議論が想定されている。
2024年12月のWTO一般理事会では、交渉参加メンバーの中から71カ国・地域が共同提案国となり、電子商取引協定を「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO協定)」の附属書4へ組込申請を行う旨が全加盟国に情報共有された。2025年2月の一般理事会にて申請が行われたものの、WTO加盟国によるコンセンサスは得られなかった。
注記
- 注1
- ジェトロ「米USTR、2025年の通商課題を報告、WTO体制に「我慢の限界」も改革に取り組む」『ビジネス短信』(2025年3月4日付)
- 注2
- ロイター「トランプ米政権がWTO資金拠出凍結、歳出削減の一環=関係者」(2025年3月28日付)
- 注3
- 外務省報道発表「APEC貿易担当大臣会合の開催(結果)」(2025年5月16日付)
- 注4
- 外務省「日本政府と世界貿易機関事務局による共同プレスリリース」(2025年5月13日付)
- 注5
- ジェトロ「米中共同声明、中国側は重要な一歩と評価、協議継続で一致」『ビジネス短信』(2025年5月13日付)
- 注6
- MPIAの仕組みについては、ジェトロ「世界貿易投資報告2024年版」参照
- 注7
- WTO“JOB/DSB/1/Add.12/Suppl.12”(2025年5月7日付)
- 注8
- WTO“JOB/DSB/1/Add.12/Suppl.13”(2025年5月23日付)
- 注9
- WTO“JOB/DSB/1/Add.12/Suppl.15”(2025年6月26日付)
- 注10
- EU産冷凍ポテトフライへのAD措置(DS591)、EUが申し立てたトルコの医薬品に対する措置(DS583)。詳細は2024年の本報告書を参照。
- 注11
- WTO-DS601:China-Anti Dumping Measures on Stainless Steel Products from Japan、ジェトロ「世界貿易投資報告2024年版」参照。本件は、中国が2018年7月に日本製ステンレス製品に対するAD調査を開始し、2019年7月に同製品に対するAD措置を実施する最終決定を発表したもの(日本企業に対する課税率は18.1~29.0%)。日本は、本AD措置に関し、中国当局の認定や調査手法に瑕疵がありWTO協定違反の疑いが強いとして、MPIA発足後の2021年6月に二国間協議を要請、その後、2021年8月に中国をWTOに提訴した。WTOは2023年6月のパネル最終報告書において日本の主張を認め、中国に対し措置の是正を勧告した。同措置は同年7月22日をもって撤廃された。
- 注12
- Inside U.S. Trade “U.S. faces renewed frustration, action at WTO over Trump’s tariffs”(2025年5月14日付)
- 注13
- Inside U.S. Trade “U.S. rejects EU’s request to join WTO steel, aluminum dispute with Canada”(2025年5月5日付)、” U.S.: EU-proposed retaliation at WTO invalid as tariffs aren’t safeguards”(2025年6月11日付)
- 注14
- ジェトロ「第13回WTO閣僚会議、デジタル製品の国際的取引に係る関税不賦課モラトリアム延長に合意」『ビジネス短信』(2024年3月13日付)
- 注15
- 経済産業省報道発表「WTO電子商取引交渉安定化したテキストを達成しました」(2024年7月26日付)
特記しない限り、本報告の記述は2025年6月末時点のものである。
目次
-
第Ⅰ章
世界と日本の経済・貿易 -
第Ⅱ章
世界と日本の直接投資 -
第Ⅲ章
世界の通商ルール形成の動向 -
- 第1節 世界の通商政策を巡る最新動向
- 第2節 多国間貿易体制の現状と課題
- WTOにおけるルール形成
- 世界および日本のFTAの現状
- 第3節 世界の新たなルール形成の動き
(2025年7月24日)



