欧州委の首席交渉官、英国政府の出方を牽制-社会保障や教育・研究分野で課題山積と発言-

(EU、英国)

ブリュッセル発

2017年05月09日

 英国政府とのEU離脱協議を担当する、欧州委員会のミシェル・バルニエ首席交渉官は5月5日、EUレベルの社会科学系高度研究を行う欧州大学院(EUI)の運営総会で講演を行い、EU市民の自由移動が英国経済を支えてきた現実を述べ、英国政府の動きを牽制した。また、相互の市民の権利保障に異論はないが、社会保障や教育・研究など各論ではさまざまな法的判断を伴う課題が山積する実態も明らかにした。

英国経済を支えてきたEU市民の自由移動

バルニエ首席交渉官は5月5日、イタリア・フィレンツェ近郊に本拠を置くEUIの第7回運営総会に出席し、英国のEU離脱(ブレグジット)協議に向けた英国政府の動きを牽制する発言を相次いで行った。EUI運営総会は、社会科学系の博士課程相当の高度専門研究をEUレベルで行うEUIの運営にEUの政策方針を反映させる目的で、毎年開催されている。こうしたEUレベルの教育・研究分野は、ブレグジットの影響が顕著に表れるものとみられており、同氏の発言が注目されていた。

基調講演に登壇したバルニエ首席交渉官はあえて英語でスピーチに立ち、「人の自由移動はEU市民の根幹に関わる原則」と述べた上で、「この原則が今日、攻撃にさらされている」「人の自由移動を含む4つの自由は不可分で、それでこそ、EU単一市場は機能する」とし、「人の自由移動」の原則の存続に否定的な英国政府の姿勢を強く牽制した。また、英国の食品流通事業者の「英国で(同産業での)採用募集を行っても、英国国籍者が応募してくるのは50人に1人の割合」との英国下院議会証言や、飲食・観光産業を主要会員とする英国ホスピタリティー産業協会(BHA)の、英国国籍者以外のEU市民が英国労働市場から排除された場合、6万もの業務ポストを埋めることができなくなるとの警告などを引用し、「人の自由移動」の原則がいかに英国経済を支えてきたかを強調、こうした議論を無視して、ブレグジットに突き進んだ英国の姿勢に疑問を呈した。

「総論賛成、各論反対」の難しい議論に

バルニエ首席交渉官は今後の離脱協議について、まずは欧州委が5月3日付で欧州理事会に対してEU基本条約第50条に基づく協議指令のための勧告を行ったことに言及。「欧州理事会は5月22日に私に交渉権限を付託してくれるものと期待している」と自信をみせた。

欧州理事会が4月29日に採択した「交渉ガイドライン」(2017年5月1日記事参照)の関係では、「EU市民とその家族の権利保障が最優先課題」とする従来の考えを繰り返したが、「総論賛成、各論反対」の難しい議論になるとの見方を示している。総論としてEUと英国双方の市民の権利保障に異論はないが、具体的に保障の対象者の範囲や保障の期間の議論になると、難しい判断が求められる。本来、人の権利は将来にわたって保障すべきものだが、要所要所で法的な判断を明確に示す必要が出てくるとしている。

バルニエ首席交渉官は、法的判断には優先すべき原則が必要で、(1)EU法で認められた権利保障のレベルを下げてはならない(ブレグジット問題が人々の生活の本質に影響してはいけない)、(2)EU・英国双方の対応の相互性の確保、(3)EUはこれらの権利保障の実効性に関して、高度な透明性を求める、の3原則が重要との考えを明らかにした。

複雑な雇用保険や医療保険、年金など社会保障

さらに、バルニエ首席交渉官は市民権保障の範囲についての持論を展開し、「今日、英国で合法的に居住・滞在している(EU)市民の権利はいかなる場合でも、EU離脱以降も保障されるべきだ」と語った。同首席交渉官はBMWオックスフォード事業所に勤務するポーランド人熟練工の例を挙げ、「彼が失職した場合、どうなるのか。仮にポーランドに仕事を探しに帰国したとすれば、彼は英国での雇用保険の対象になるのか。現在のEU法はそれを認めている」として、英国のEU離脱以降も、雇用保険や医療保険、年金など社会保障の面で、双方の市民が居住・就労などの実地での権利保障が続く現実を紹介。広範な分野での相互市民の生活保障の議論、法的判断が今後の離脱協議で必要となることを示唆した。

また、バルニエ首席交渉官は「英国でエンジニアとして就労し、定年退職したギリシャ人がアテネに帰還した場合、英国の年金をギリシャで受給(年金輸出)できるのか」「英国国籍者と結婚していたスペイン人未亡人は、その後も英国で生活する上でそれまでの権利を保障されるのか」「ハンガリーで10年働いたスコットランド人が英国に帰ってキャリアを終えた場合、年金積算期間として、これら全てを合算できるのか」「また、このスコットランド人の子女がハンガリーに残留して大学に進学した場合、ハンガリー国籍者と同等の待遇を得られるのか」など具体例を示し、これらの権利は例外なく保障されなければならない、と指摘した。

高等教育機関での研究交流にも影響か

そして、EUI運営総会という機会であるため、バルニエ首席交渉官の指摘は教育・研究分野の権利保障の問題事例にも及んだ。「英国エセックス大学の博士課程の学生が2020年に同大学の奨学金を取得し、同学生がさらに研究を深めるため、イタリアのトリノ大学に4ヵ月の共同研究に参加する場合はどうか。2020年時点では英国は既にEUから離脱している。同学生はイタリアで非EU国籍者として扱われることになるだろう。同学生には欧州健康保険証も認められないことになり、(高額な)個人医療保険を探すことになるだろう」と、ブレグジット問題の影響は、EU域内の教育・研究分野にも波及する可能性を示唆した。

なお、バルニエ首席交渉官は、欧州委員会が欧州理事会に対してEU基本条約第50条に基づく協議指令のための勧告を行った5月3日にも記者会見を開き、ブレグジット問題の影響はEU・英国の学位の相互認定などにも想定される、と語っている。

(前田篤穂)

(EU、英国)

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