マリ情勢を左右するイスラム武装勢力の動き−セミナー「日本企業のアフリカ展開とマリ・アルジェリア情勢」(2)−
中東アフリカ課
2013年03月21日
「日本企業のアフリカ展開とマリ・アルジェリア情勢」セミナー報告の2回目。ジェトロ・アジア経済研究所地域研究センター・アフリカ研究グループ長代理の佐藤章主任研究員は、アルジェリアのイナメナスで2013年1月に発生した人質拘束事件との関連が指摘される、マリ北部危機の歴史的背景、経過、および国際社会の対応について解説した。
<北部の分離・独立を目指すトゥアレグの反乱相次ぐ>
アルジェリアで起きた事件の背景として指摘されているのが、マリ北部における混乱とその歴史だ。北アフリカに居住するベルベルの1つの民族であるトゥアレグは、古くからラクダ牧畜と交易を生業とし、アルジェリア、マリ、ニジェール、リビア、ブルキナファソにまたがり、約150万人が居住している。そのうち、マリには約60万人がおり、同国北部(トンブクトゥ、ガオ、キダル)では人口の約3割を占める(図参照)。
1960年のフランスからの独立後、マリの南部は社会的・経済的開発が進んだ一方、北部では開発が遅れた。このため、不満を募らせたトゥアレグが、北部の分離・独立を求めて、1962年に武装蜂起した。しかし、マリ政府の激しい弾圧にあい、アルジェリアやリビアに離散。また1970〜80年代の大規模干ばつが追い打ちをかけ、生計基盤を失って難民化した。周辺国に離散したトゥアレグだったが、1980年代は周辺国の景気が良くなかったことから、本国への帰還を余儀なくされた。トゥアレグはその後も1990〜96年、2006〜09年の2度にわたり蜂起し、マリ政府との交渉の結果、地方分権、予算・開発投資の増大、そして軍事的権限の拡大が認められることとなった。トゥアレグ兵士の国軍での雇用は若年層の雇用対策として、また交易利権の保障は密輸収入の黙認として、重要な意味を持っていた。マリ政府側としても、北部鎮圧コストの抑制やトゥアレグとの信頼関係維持に加え、アルカイダ系組織の封じ込めへの期待があった。北部の独立は認められないまでも、マリ政府とトゥアレグの共存共栄の姿が一応、形成された。
<イスラム主義組織が主導権を掌握>
しかし2012年1月、トゥアレグ主導の「アザワド解放国民運動(MNLA)」が分離・独立を求めて武装蜂起した。佐藤主任研究員はこれまでの武装蜂起との違いとして、「軍事力の高さ」と「イスラム主義組織の関与」を指摘した。MNLAの軍事部門は元リビア国軍兵士が中心で、カダフィ政権崩壊に伴いマリに帰還する際、対空ミサイルなど高性能な武器を携え高い軍事力を備えていた。また、それまで政治的なイデオロギーとしてイスラム主義を掲げてこなかったトゥアレグの中に、ジハード主義に傾倒した過激派イスラム勢力「アンサール・ディーン(AD)」が創設され、両者(世俗主義のMNLAと過激派のAD)が「北部解放」という共通の目的のため、手を組むことになった。加えて、「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ(AQIM)」がサハラ地域における拠点確保の思惑からトゥアレグの北部独立を支援し、これら3勢力が結び付くこととなる。なお、北部支配に関してはMNLAとADの対立もあり、2012年6月にはイスラム主義組織による北部支配が確立した。こうした結果、マリ北部を含む広範なサヘル地域(サハラ砂漠南縁部)にAD、AQIM、西アフリカ統一聖戦運動(MUJAO)、ボコ・ハラムの4つのイスラム主義組織が活動することとなり、「テロリストの天国」とも表現される状況となった。
<過激派イスラム主義運動の抑え込みで国際社会が一致>
北部反乱をめぐって、国内外の対応はどのようになっていたのか。まずマリ国軍内部では、十分な武器を持たされずに前線に送り込まれる国軍兵士の間に、これまでの北部政策に対する不満が募り、2012年3月22日にクーデターが発生、トゥーレ大統領が追放された。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の仲裁もあり、トラオレ国民議会議長が暫定大統領に就任し、早期の選挙実現を目指すことになったが、国軍による政治介入が続き、政権は不安定化した。こうした中央政府の混乱により、南北分裂の状態が膠着(こうちゃく)化した。
国際的な枠組みの中で、マリへの対応も進められた。2012年12月20日には、国連安保理決議2085が発動された。佐藤主任研究員は、この決議における(1)北部勢力に対し、アルカイダ(AQIM、MUJAO)との絶縁を勧告した点、(2)マリ北部の分離・独立を認めないと確認した点、(3)マリ・アフリカ国際支援団(AFISMA)の派遣を承認した点、の3つを重要な転機として指摘した。この決議を受け、早晩、北部地域への軍事介入もあり得ると警戒した北部勢力は南進を開始し、ADもマリ政府の「戦争継続」姿勢を批判する強硬姿勢に転じた。この結果、年明け2013年1月10日にはマリ国軍との戦闘が始まった。武器など装備に勝る北部勢力に対抗するため、トラオレ暫定大統領はフランスのオランド大統領に軍事介入を依頼し、翌11日にフランス軍による空爆が開始され、北部奪還作戦が始まるに至った。なお、フランスの軍事介入をめぐってはアフリカ諸国も含め、国際社会でおおむね支持されている。
佐藤主任研究員は、フランスによるマリへの軍事介入の背景として、多数の在留フランス人やフランス資本企業の存在、隣国ニジェールにおける鉱山権益の保護のほか、イスラム主義勢力の活動を安全保障上の危機と捉え、封じ込めたい狙いがあったのではないかと述べた。アフリカ諸国も独力での対マリ北部軍事対応には限界があることや、国連安保理も決議2085を出していることから、イスラム主義勢力の封じ込めで国際社会の利害は合致していたという。
<マリ北部情勢の早期安定化は困難>
しかし、佐藤主任研究員は、マリ北部情勢の安定化はすぐには実現されないとみている。まず、北部におけるイスラム主義組織の排除と北部の軍事的な秩序が確立される必要があるが、これら組織のゲリラ的な抵抗にあうことが予想される。また、一定の安定が達成・維持されたとしても、北部の平和構築と開発のための対話の開始や政策の策定に当たっては困難が予想される。まずもって、北部住民が対話に応じるかどうかがカギだろう。
こうした中、佐藤主任研究員は、イスラム過激派の活動の活発化による同様の事件が発生する可能性に関して、地域情勢の知識に基づいた判断をしておくことが有益だと指摘した。テロは言葉のとおり「恐怖」であり、相手の意表を突く行動を取ることで恐怖感を与えることを目的としている。従って可能性をゼロにすることは難しいが、テロ発生の可能性がある場所の推定はできる。例えば、武器の流通ルートとの関係からリビアから地続きのサヘル近隣地域。一方、小規模の誘拐や爆破などの事件は警備体制が手薄な場所が危ない。予断を許さない状況としつつも、大量の武器などを長距離で運搬することの難しさに加え、そもそも過激なイスラム主義がアフリカ諸国で広範に支持されているわけでもないことから、大規模なテロ事件がアフリカ全土に拡大する可能性は、現時点ではそれほど高くないとの見方を示した。
<フランスは出口戦略を検討か>
会場からは、現在の暫定政権および今後のマリの政治情勢、北部対話の展望、フランスのマリ政策などについて質問があった。佐藤主任研究員は、現在の暫定政権は憲法の手続きにはのっとっているが民主的な選挙を経ていないため、早急な選挙の実現と北部政策の確立が重要になるとした。今後の展望については、ADの指導者が対話に応じるのか、またマリ政府が従来の共和国の枠組みの中で利益や権限を分かち合う政策を打ち出せるかどうかにかかっている。またフランスは冷戦以降、「容喙(ようかい)でもなく不干渉でもなく」という外交政策をとることが多くなり、長期間の介入も望んでいないと思われることから、マリ北部における軍事行動をいずれはECOWAS軍、もしくは国連PKOに引き継ぐという出口戦略を考えているのではないか、との見解を述べた。
(高松晃子)
(マリ・アルジェリア・アフリカ)
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