リー・クアンユー初代首相、死去−建国50年、途上国から先進国へと導く−

(シンガポール)

シンガポール事務所

2015年03月23日

リー・クアンユー元首相が3月23日、死去した。2月5日から重い肺炎のため入院していた。91歳だった。リー氏はシンガポール初代首相を1990年まで務め、強力な指導力でシンガポールを東南アジアの一途上国から世界有数の先進国へと導き、首相を退いた後も閣内にとどまり、海外でもその意見は高く評価されるなど影響力を長きにわたり維持した。2015年で建国50年を迎えたシンガポールでのリー氏の死去は、1つの時代の区切りを象徴する出来事となった。

<国葬は3月29日に>
首相府は3月23日午前3時18分、リー・クアンユー元首相がシンガポール総合病院(SGH)で死去した、と発表した。同氏は2月5日から、重い肺炎で入院し、集中治療室で治療を受けていたが、首相府は3月18日から容態が悪化したと伝えていた。リー・シェンロン首相は3月23日、同日から3月29日を国喪(国民全体が喪に服する期間)とすると発表した。国葬は3月29日午後2時から行われる。

リー氏は1923年9月16日、当時、英国植民地下にあったシンガポールに生まれた。第二次世界大戦中には日本軍の統治(1942〜1945年)を経験。戦後、英ケンブリッジ大学に留学し、帰国後の1951年、弁護士資格を取得した。労働組合関係の弁護活動を通じて政治活動に深く関わるようになり、英語教育を受けた友人らと共に1954年、人民行動党(PAP)を結成し、書記長に就任した。翌1955年の選挙で初当選。1959年の選挙でPAPは大勝し、リー氏は35歳で当時のシンガポール自治州の首相に就任した。1963年9月に、マラヤ連邦とボルネオ島のサバ・サラワク両州とシンガポールが統合して、マレーシア連邦として英国から独立。しかし、マレーシア中央政府と政策面での対立から1965年8月9日、連邦からシンガポール共和国として分離独立した。リー氏は独立後も首相を1990年11月まで務め、2代目首相としてゴー・チョクトン氏が引き継いでからは「上級相」として閣内で首相を補佐。2004年8月に、リー氏の長男、リー・シェンロン首相が第3代首相に就任してからは、2011年5月まで「顧問相」に就任し、影響力を維持していた。PAPの得票率が60.1%と独立以来最低となった2011年5月の総選挙後に発足した新内閣で、リー氏は顧問相を退き、一議員となっていた。

シンガポールは1965年の独立時、1人当たりGDPは516米ドルだったが、2014年には同5万6,284米ドルと、1人当たりGDPでは日本や米国を上回る。リー氏は50年足らずでアジア有数の先進国へと同国を押し上げるに当たって、強力な指導力を発揮したとの評価が高い。長男のリー・シェンロン首相は3月23日午前8時、テレビで生放送された国民へのメッセージの中で、「リー初代首相が国家を何もないところから立ち上げ、シンガポール国民として誇りを持たせてくれた。彼のような人はいない」と述べた。リー初代首相は近年、体調を崩しがちで、恒例としていた地元選挙区での中国正月の夕食会も2013年から3年連続で欠席していた。リー氏が最後に公の席に顔を見せたのは2014年11月のPAP結党50周年の式典。2015年に50周年を迎えるシンガポールでのリー氏の死去は、急成長を遂げた同国の1つの時代の終焉(しゅうえん)を象徴する出来事となった。

<注目が高まる第4世代指導者の行方>
一方、リー・シェンロン首相はシンガポール総合病院で前立腺がんの手術を受け、2015年2月18日に退院していた。同首相の手術は成功だったが、首相府がリー・クアンユー氏の入院を初めて発表したのが2月21日と、シェンロン氏の退院数日後のことだったことから、リー父子の入院を受けて同氏の後任となる第4代首相の行方にあらためて注目が集まっていた。

リー首相は現在63歳、就任11年目を迎える。2011年5月の新内閣発足時に、2020年までに首相交代を目指す考えを明らかにし、現内閣を第4世代指導者体制への移行期内閣と位置付けていた(2011年5月25日記事参照)。次期総選挙は2017年1月までに実施予定だが、建国50周年で国威高揚のムードが高まる中で2015年中にも総選挙が前倒しで実施されるとの観測が2014年暮れから高まっていた。

(本田智津絵)

(シンガポール)

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