多国間デジタル貿易協定に向け、期待高まる(米国)
TPP復帰が理想的とする声も

2021年9月28日

トランプ前共和党政権下で、米国と中国、2国間の関係は緊迫した。バイデン民主党政権が発足した2021年1月以降も、緊張が続く。米国連邦議会でも、中国との長期的な競争関係に備えるべきとの声が超党派で高まっている。

そうした中、バイデン政権内でインド太平洋地域での多国間デジタル貿易協定を締結する構想が検討されている、と報じられた。米国の有識者らも、その構想に対する是非を論じ始めている。本レポートでは、それら議論の経緯と要点、および今後の見通しを紹介する。

インド太平洋での米国のプレゼンスを求める声

バイデン政権は2021年1月の発足以降、新型コロナウイルス感染症の克服と経済の再建を最優先課題としてきた。その一方で、トランプ前政権下で悪化した中国との通商関係の見直しは後回しとの姿勢を取ってきた。現に、キャサリン・タイ米国通商代表部(USTR)代表は、対中通商政策について「包括的な見直し中」と説明するにとどめ、政権発足から半年が経っても、その進捗など具体的な情報は何ら明かされていない。

そうした中で、米国の連邦議会議員や有識者の間で、米国は今後、世界の中で経済成長の中心になるインド太平洋で早期にプレゼンスを示すべきとの声が上がっている。狙いは、中国との長期的な競争関係を有利に進めることだ。「ワシントン・ポスト」紙(6月13日)の記事「米国はTPPの失敗から学び、交渉の席に戻る必要がある」は、その代表例と言える。この記事は、米上院のトム・カーパー議員(民主、デラウェア州)とジョン・コーニン議員(共和、テキサス州)が連名で寄稿した。両議員は、上院で通商を所管する財政委員会の下に置かれる国際貿易・税関・国際競争力小委員会で、それぞれ委員長と少数党筆頭理事の要職にある。この記事では、前政権が環太平洋パートナーシップ(TPP)協定から離脱したことは「貿易相手国の米国に対する信頼を傷付け、競争の激しいアジア太平洋地域(での主導的な地位)を中国に譲った」と批判。その上で、政権交代の機会を活用し、「われわれはアジア太平洋の同盟国に再び関与し、多国間の貿易枠組みを築くべき」と主張した。もっとも、今後の道筋は明確でない。TPPへの再加入が理想的としつつ、具体的なプロセスや代替案などには触れられなかった。

インド太平洋での米国のプレゼンスを求める声が上がる中、突如明らかになったのが、バイデン政権による当該地域での多国間デジタル貿易協定の構想だ。政権から公式な発表は出ていないが、米経済ニュースのブルームバーグが、政府関係筋による話として7月12日に報じた。この報道によると、この構想はデータ利用のルールや貿易円滑化、電子的通関手続きなどの基準策定を主眼とするものだ。日本のほかオーストラリア、カナダ、チリ、マレーシア、ニュージーランド、シンガポールといった国々を含む可能性があるとされている。同時に、同協定案はまだ検討段階のため具体像は固まっていないようだ。

実際、タイUSTR代表は6月下旬から7月にかけて、シンガポール、カナダ、オーストラリアの貿易相と会談。詳細は明かされていないものの、デジタル貿易についても意見交換したとされる。このうち、オーストラリアのダン・テハン貿易・観光・投資相は、デジタル貿易協定が、環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定(CPTPP、いわゆるTPP11)への米国加入の前触れとなる可能性を問われ、「それが事実であることを望む国は(インド太平洋)地域に多く存在する」と発言。その上で、「その第1歩を踏み出せれば、第2歩として米国のTPP加入の可能性も見えてくるだろう」と、構想を歓迎した(ブルームバーグ7月22日)。

米有識者は好感しつつも現実的な課題を指摘

これより前から、米国の元政府高官や有識者は、インド太平洋地域でのデジタル貿易協定の必要性を唱えていた。

例えばジェニファー・ヒルマン氏は2021年3月、米外交問題評議会(CFR)のデビッド・サックス氏と共著のレポート外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますで、デジタル貿易協定を手始めに地域の重要な同盟・友好国との分野別貿易交渉を経て、CPTPPに加入すべき、と提言した。中国の「一帯一路」構想への対抗策の1つとの位置付けだ。ヒルマン氏はWTOの上級委員の経験を有し、一時期は現政権のUSTR代表候補に挙がっていた。

オバマ政権でTPP交渉にも携わった元USTR次席代表代行のウェンディ・カトラー氏も、「インド太平洋におけるデジタル貿易協定の機は熟した」と題する記事を寄稿。記事は米ブルッキングス研究所のジョシュア・メルツァー氏との共作で、米政治専門誌「ザ・ヒル」(4月2日)に掲載された。その中で両氏は、インド太平洋でのデジタル貿易協定に乗り出すことは、米国がアジアでの通商交渉に再び参加することを可能にするとした。また、新型コロナウイルスのパンデミックで急速に進んだデジタル化や人工知能(AI)といった新興技術に関する課題に対応する機会を与え、中小企業をうまく取り込むことで米国の中間層にも利益をもたらす、と強調。これらは、バイデン政権が掲げる「労働者中心の通商政策」に資する取り組みだ、と指摘している。あわせて、インド太平洋地域でのデジタル貿易協定を進める上で基盤となり得る既存の枠組みとして、CPTPPの電子商取引章の取り決めや日米デジタル貿易協定、シンガポールとオーストラリアのデジタル経済協定、デジタル経済パートナーシップ協定(DEPA、注1、注2)を挙げた。

他方で、米戦略国際問題研究所(CSIS)のマシュー・グッドマン上級副所長は論考「DEPA and the Path Back to TPP外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます」で、バイデン政権の構想に提言を示した。同氏は、オバマ元政権時代に国家安全保障会議(NSC)で国際経済部長を務めた人物でもある。その中でまず、デジタル貿易協定の潜在的な課題として次の3点を指摘した。

(1)
通商交渉には想定以上の時間がかかる。
(2)
利害関係の調整という国内政治上の課題があり、特に議会との合意形成に困難を伴う。
(3)
貿易は、デジタル経済の1つの側面でしかない。

(1)は、WTOでの電子商取引分野に絞ったルール形成をみても明らかだ。有志国による交渉は、2017年12月から始められていた。しかし、それから交渉は進展しつつも、現時点でもなおまとまっていない。もちろん、参加国・地域が86と多いため、地域的な貿易協定交渉とは単純には複雑さを比較し得ない。だとしても、意欲のある国・地域による分野を絞った交渉でも相当な時間がかかることを示す一例だろう。

(2)の議会との調整については、大統領貿易促進権限(TPA)が2021年7月1日に失効したことが、ボトルネックになる可能性がある(2021年7月2日付ビジネス短信参照)。TPAとは、本来は議会に属する通商交渉権限を、時限立法で政権に移管するものだ。議会が設定した条件に従い、政権がまとめた貿易協定について議会は協定内容を修正せず、実施法案の賛否のみを審議する。交渉相手国にしてみると、交渉・合意した協定が米議会で修正されないために、米政権がTPAを有していることが重要だ。バイデン政権がTPAの復活を現時点で求めていない中、上院財政委員会のチャック・グラスリー議員(共和、アイオワ州)は、バイデン政権がTPAなしでデジタル貿易協定交渉を妥結させ、議会を通過させることは難しいだろう、と指摘している(米通商専門誌「インサイドUSトレード」7月22日、注3)。

(3)については、例えばAIに関する倫理的な基準のような分野は貿易協定になじむのか、といった課題がある。

グッドマン氏は、これら課題に応える道筋として、バイデン政権に対してDEPAへの加盟を提言した。DEPAは、デジタル貿易の円滑化、信頼性のあるデータ流通、デジタルシステムにおける信頼構築を主眼とする。これまでの貿易協定ではカバーしきれていない先進的な項目を含む(注2)のが、特徴だ。デジタル身分証明や電子請求書、AIの倫理的ガバナンスなどが、その一例と言える。一方で、それら項目については発効段階で法的拘束力のあるルールを定めるのではなく、ベストプラクティスを共有し、相互運用可能なルールを模索するといった努力目標にとどめられた。グッドマン氏は、こうした柔軟なプロセスこそ、バイデン政権が即時にインド太平洋地域でのルール形成に参加することを可能にする、と強調した。

参考:米国がインド太平洋地域でのデジタル貿易協定に参加する意義・課題

意義
中国の一帯一路への対抗
同盟・友好国に米国のアジア回帰をアピール
米国のTPP復帰への一歩
米企業の世界展開を支援
AIなど新興技術に関するルール形成への参加
課題
交渉に相当な時間が必要
TPAが失効中/議会との調整が困難に
国内での自由貿易に対する支持が低下
バイデン政権自体が新規の貿易交渉を後回しにする方針
バイデン政権内での対中通商政策の見直しが未完了

出所:有識者の指摘などを基にジェトロ作成

APEC首脳会談までに動けるかがカギ

米国は確かに、TPPから離脱した。しかし、TPPをデジタル貿易に関して高い水準を設定した協定として、いったんは交渉し妥結させたのも米国だ。また、実際に米国が締結した協定の中にも、デジタル貿易について定めたものがある〔日米デジタル貿易協定、米国・メキシコ・カナダ協定(USMCA)〕。これらの実績から、バイデン政権がデジタル貿易のみに焦点を絞った新たな多国間協定を交渉する土台は十分ある、と考えられる。

あとは、中国との競争という外交的・戦略的側面や、米国企業の海外展開という経済的側面、また、重視する国内の労働組合・中間層の支持に影響しないかといった政治的側面など、相反する要素を天秤(てんびん)にかけて解を見つけていくことになるだろう。国内政治に関しては、政権自体が新たな通商交渉について「米国の労働者と地域社会に投資した後でなければ着手しない」との方針を掲げている点がネックになる可能性がある。

しかし、バイデン大統領自身が政策をアピールする際に指摘するように「世界は米国を待ってはくれない」。実際に中国は9月16日、米国に先んじてCPTPP加入を申請した(2021年9月21日付ビジネス短信参照)。米国がインド太平洋地域への関与において本気度を示す機会として、2021年11月にバーチャル形式で開催予定のAPEC首脳会談がある。同地域に米国が戻ったことを同盟・友好国に示す上では、それまでにインパクトのある貿易協定構想を示すことができるかが、バイデン政権の外交戦略における1つの山場になりそうだ。


注1:
シンガポール、チリ、ニュージーランドの3カ国間で妥結したデジタル貿易協定。先に批准を完了したシンガポール・ニュージーランドの間で、2021年1月に発効した。
注2:
DEPAの概要については、「ジェトロ世界貿易報告2020年版」総論編第Ⅳ章(2.77MB)PDFファイル(第3節デジタル関連のルール形成動向(3)FTAにおけるデジタル関連のルール形成)を参照。
注3:
一方で、米国内法の変更が必要ない場合は、TPAが不要との見方もある。例えば、日米デジタル貿易協定はTPAの手続きなしで発効している。
執筆者紹介
ジェトロ ニューヨーク事務所 調査担当ディレクター
磯部 真一(いそべ しんいち)
2007年、ジェトロ入構。海外調査部北米課で米国の通商政策、環境・エネルギー産業などの調査を担当。2013~2015年まで米戦略国際問題研究所(CSIS)日本部客員研究員。その後、ジェトロ企画部海外地域戦略班で北米・大洋州地域の戦略立案などの業務を経て、2019年6月から現職。