新たなステージに入った世界のカーボンプライシング徐々に進展するカーボンプライシング(インドネシア)
排出権取引市場が稼働、炭素税導入時期は未定
2024年5月27日
インドネシア政府は、温室効果ガス(GHG)の排出削減目標達成の手段の1つとして、カーボンプライシングを導入している。カーボンプライシングは炭素に価格を付与する施策であり、GHG排出にかかるコストを上昇させることで、相対的に低炭素な代替エネルギーや技術の利用にコスト競争力を持たせることができる(2021年9月10日地域・分析レポート参照)。
本稿では、インドネシアにおけるカーボンプライシング政策の概要、特に同国における「排出量取引制度」および「炭素税」の動向、在インドネシア日系企業の脱炭素化に向けた取り組み状況を報告する。
インドネシアにおけるカーボンプライシング政策の概要
インドネシア政府は、2021年7月に「低炭素および気候レジリエンスに向けたインドネシア長期戦略2050(22.89MB)」を発表し、2060年までに炭素中立(カーボンニュートラル)を達成すると表明した。また、パリ協定に従って各国が削減目標などを定める「国が決定する貢献(NDC、Nationally Determined Contribution)」の改定版(5.92MB)を国連に提出し、GHGを2030年までに、対策を実施しなかった場合と比べて(BAU比、注1)、国際社会の支援なしで31.9%、国際社会の支援ありで43.2%削減する目標を打ち出している。
前述の目標達成のため、ジョコ・ウィドド大統領は、2021年11月に英国・グラスゴーで開催された国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)において、カーボンプライシングに係る大統領令2021年第98号に署名したことを発表し、脱炭素に取り組んでいく姿勢をアピールした(2021年11月9日付ビジネス短信参照)。さらに、同大統領令の施行規則として、2022年10月に環境林業大臣規則2022年第21号を制定し、導入にあたっての技術的要件を定めた。
環境林業大臣規則2022年第21号では、1.炭素取引、2.GHG排出量の削減実績に基づくインセンティブの支払い、3.炭素排出に対する賦課金、4.科学技術開発に貢献するその他の施策の4つをカーボンプライシングにかかる施策として位置づけている。以降は、排出量取引制度を含む「炭素取引」と「炭素税」に焦点を当てて説明する。
2023年9月に国内初の排出権取引市場が開業
炭素取引は、国内外における炭素の売買を行うことにより、GHG排出量を削減する経済的手法である。インドネシアは、国内の各事業者に対してGHG排出量の枠を定め、その枠内に収めるべく排出量削減を義務付ける「排出量取引制度」と、「GHG排出オフセット制度」の2つのスキームを導入している。これらの取引は原則、企業や団体が、環境林業省の「気候変動抑制のための国家登録システム(SPN-PPI)」に案件を登録した上で行われる。
大統領令2021年第98号によれば、排出量取引制度は、表に記載のセクターおよびサブセクターで実施される。各領域(セクターおよびサブセクター)の関係大臣によって、GHGの排出枠の上限(PTBAE)が設定された後、対象事業者に個々の排出枠(PTBAE-PU)が割り当てられる。なお、2024年4月19日時点で、PTBAE-PUが設定されているのは発電所セクターのみ(エネルギー鉱物資源大臣規則2022年第16号)である。かつ、同セクター内においても段階的に対象範囲を拡大していくとされ、2023年、2024年の第1フェーズでは石炭火力発電所のみが対象だ。2023年時点では、国営電力会社PLNの送電網と接続する100メガワット以上の石炭火力発電事業者42社、99の石炭火力発電所に対して排出枠の割当が行われた(2023年2月22日エネルギー・鉱物資源省プレスリリース)。また、森林セクターの泥炭地・マングローブ管理に対しても、環境林業大臣規則2023年第7号が制定されており、今後、割当の設定が予定されているが、2024年4月時点で対象事業者に対するPTBAE-PUの割当は実施されていない。
セクター | サブセクター |
---|---|
1.エネルギー |
発電所 輸送 建設 |
2.廃棄物 |
ごみ 液体廃棄物 固形廃棄物 |
3.工業プロセスおよび製品利用 | 工業 |
4.農業 |
水田 畜産 プランテーション |
5.林業 |
林業 泥炭地およびマングローブ管理 |
6.科学技術の発展に貢献するその他の分野 | 科学技術の発展に貢献するその他の分野 |
出所:大統領令2021年第98号
PTBAE-PUの割当を受けた事業者は、順守期間終了時にGHG排出量の測定を行い、実施報告書を作成のうえ、第三者検証機関による検証を受ける。検証結果に基づき、GHG排出量の実測値がPTBAE-PUを超過した場合は、他の事業者からPTBAE-PUもしくは排出削減証明書(SPE-GRK)を購入することにより、超過分を補填(ほてん)しなければならない。反対に、PTBAE-PUを下回った場合には、余剰分を2年間に限り繰り越すことができるほか、販売することができる。なお、PTBAE-PUの売買は同一セクター内のみに限られ、他セクターの企業との取引はできない。セクターおよびサブセクターによっては、PTBAE-PUの余剰分をSPE-GPKに転換することも可能とされている。SPE-GPKは他セクターの企業とも取引が可能だ。ただ、上述の発電所サブセクターは、エネルギー鉱物資源大臣規則2022年第16号で、SPE-GRKへ転じることはできないと規定されている。
一方、GHG排出オフセット制度は、政府に定められた枠はないものの、事業者が自発的に行った排出削減の取り組みについて、計測・報告・検証を行い、環境林業省が承認すれば、SPE-GRKに削減分を転換して他の事業者と取引することができる制度である。
新規のSPE-GRKの取得にあたっては、気候変動緩和行動計画書(DRAM)の作成、第三者検証機関による検証とSPN-PPIへの登録、排出削減プロジェクトの実施、プロジェクト終了時の実施報告書の作成および第三者検証機関による検証などの手順を経る必要がある。
インドネシアでは前述の炭素取引を取り扱う機関として、インドネシア証券取引所が2023年9月26日、国内初の排出権取引市場(IDX Carbon)を開設した(2023年10月4日付ビジネス短信参照)。同取引市場で取引されるカーボンクレジットは前出した事業者のGHG排出量上限枠であるPTBAE-PUと排出削減証明書であるSPE-GRKで、PTBAE-PUは「アローアンスマーケット」上で、SPE-GRKは「オフセットマーケット」上で取引される(IDX Carbonウェブサイト参照)。両マーケットでは、主に以下の方法で取引が行われる。
- (1)
- 政府または排出削減プロジェクトのオーナー(販売者)がオークション形式でカーボンクレジットを販売するオークション取引。販売者が最低販売希望価格など詳細を提示したのち、購入希望者が購入希望価格および数量を提出する。その後、販売者が落札者や割当を決定する。
- (2)
- 販売者、購入者がそれぞれ取引数量と価格を提出し、取引所上でリアルタイムでマッチングおよび売買が行われるレギュラー取引。
- (3)
- 販売者と購入者が市場外で合意した取引をIDX Carbon上で実施する交渉済み(Negotiated)取引。第三者であるIDX Carbonを介在させることで取引の安全性担保が期待できる。
前述の取引形態に加え、オフセットマーケットでは、販売者がプロジェクトの内容と販売価格を提示し、購入者がSPE-GRKを購入するマーケットプレイス取引が存在する。
炭素取引市場そのものは整いつつあるが、IDX Carbonにおける取引はいまだ限定的だ。金融サービス庁(OJK)資本市場監督行政長官であるイナルノ・ジャジャディ氏は3月19日、「現在、炭素取引市場の取引は小規模にとどまる」と発言した(「ビスニス」3月19日)。一方、同長官は、「SPN-PPIには3,546の事業が登録されている」とし、「今後のIDX Carbonにおける取引増加が十分に見込まれる」と期待を示した(「アンタラ通信」4月2日)。IDX Carbonは2024年3月の月次報告書で、2023年9月26日の開設から2024年3月末までの同市場への新規の参画事業者数は53事業者と発表した(IDX Carbon資料参照(922KB))。取引されている主なカーボンクレジットは、国営石油会社プルタミナの子会社プルタミナ・ニュー・リニューアブル・エナジー(PNRE)が手掛ける北スラウェシ州ラヘンドン地熱発電所や、国営電力会社PLNによるムアラカラン火力発電所プロジェクト関連のものに限られる。一方、金融機関などがカーボンクレジットを購入する動きもある。OJKは、ESG(注2)を基礎とする持続可能な経済の実現に向け、2025年までに段階的に対象企業を拡大しつつ、金融機関と上場企業にサステナビリティー報告書の提出を義務づけており、自主的にクレジットを購入して、GHGの排出削減に取り組むインセンティブがあるものと考えられる。
炭素税の導入は、延期が続く
炭素税は、2021年10月に施行した税法の調和に関する法律2021年第7号で、2022年4月1日から実施するとされたが、導入延期が続いている(2022年4月6日付ビジネス短信参照)。同法では、炭素税について2022年から2024年までは石炭火力発電所に限定して適用することを定め、2025年以降は経済状況や関連セクター・関係者の準備状況、炭素税がもたらす影響を考慮し、段階的に炭素税徴収の実施と対象セクターの拡大を行うと規定していた。
炭素税の具体的な導入時期については、2022年10月13日に国際資本市場をテーマとし、ジャカルタで開催された「Capital Market Summit & Expo (CMSE) 2022」において、アイルランガ・ハルタルト経済担当調整相が「2025年を目指している」と発言した。ただし、2024年10月20日に就任式が予定されている新大統領やその後に組閣される新内閣の決定次第では、炭素税の導入時期は再び変更される可能性がある、との報道もあり、明確な導入時期は発表されていない(「CNBCインドネシア」2024年3月26日)。
EUのCBAM導入により、特に鉄鋼業界に影響が生じる恐れ
インドネシアの炭素取引市場の拡大、また炭素税の導入開始については今後の動向を注視する必要があるが、在インドネシア企業が考慮すべき事項として、2023年10月1日に報告義務が開始されたEUによる炭素国境調整メカニズム(CBAM:Carbon Border Adjustment Mechanisms、注3)の存在も挙げられる。CBAMでは、鉄・鉄鋼、セメント、肥料、アルミニウム、水素、電力とその一部の川下製品が対象製品となっている。IDX Carbonが2024年3月14日に、炭素取引に関する情報提供を目的に実施したセミナーでは、インドネシアにおいては特に鉄鋼業界への影響が大きいとの言及があった。
インドネシア鉄鋼産業協会は2024年1月、EU向け輸出の主要な鉄鋼生産ラインは石炭を燃料に使用していることから、CBAMにて、事業者が炭素排出量に応じて求められる炭素排出権証明書の購入を避けることは難しく、欧州の鉄鋼製品や炭素排出量の少ない国との競争で不利になることが確実との見解を示した(インドネシア鉄鋼産業協会ウェブサイト参照)。2022年の国内鉄鋼メーカーによるEU向け鉄鋼製品の輸出は、金額ベースで鉄鋼製品輸出全体の4%程度と比率は少ないものの、CBAM導入により、インドネシアの製鉄企業はEU市場での利益減少やシェア低下に直面しかねない(2024年2月6日付ビジネス短信参照)。
在インドネシア日系企業の脱炭素化に向けた取り組みは着実に進展
ジェトロが2023年8~9月に実施した「海外進出日系企業実態調査(アジア・オセアニア編)」によると、同アンケートに回答した在インドネシア日系企業のうち、何らかの脱炭素化に取り組んでいると回答した企業の割合は44.3%と、ASEAN平均(39.2%)を上回り、ASEAN諸国の中では在マレーシア日系企業(45.4%)に次いで高い水準となった。前年度調査(35.7%)と比較しても、企業の取り組みは着実に進んでいる。内訳をみると、大企業は53.5%が「取り組んでいる」と回答した一方で、中小企業は28.6%にとどまった(図参照)。また、製造業の大企業では63.5%に上ったものの、非製造業の中小企業では22.9%だった。業種別で見ると、化学・医薬では78.6%と最も高く、輸送機器部品やゴム・窯業・土石でも60%を超えた一方、情報通信業では8.3%と低かった。企業規模や業種によって、大きな差が生じた。
2023年9月にインドネシア国内初の排出権取引市場が稼働したほか、グローバル企業が各地の生産拠点やサプライヤーに排出削減に向けた対応を求めるなど、インドネシアでのビジネスにおいても、脱炭素化に向けた流れは加速している。2023年10月から欧州が導入しているCBAMが、インドネシアビジネス界の脱炭素化をより促す可能性もある。
インドネシアにおけるカーボンプライシング政策については、対象範囲や実施時期をはじめ今後の動向を注視する必要はあるものの、在インドネシア企業はIDX Carbonの活用によりGHGの排出削減分をクレジットに転化し、経済的価値に転換できる可能性がある。日本企業による脱炭素化に向けた取り組みも着実に進展している。今後、インドネシアにおける脱炭素機運の高まりをより一層ビジネスの機会として捉えていくことが期待される。
- 注1:
- 2010年を基準年に作成したBAU(Business As Usual)シナリオに基づく。
- 注2:
- ESGとは、環境(Environment)、社会(Social)、企業統治(Governance)の頭文字を取ったもの。これら3つの取り組みに配慮して事業活動を推進しているかどうかは、企業評価を測る1つの指標として使われている。
- 注3:
- CBAM規則では、移行期間を2023年10月1日から2025年12月31日までに設定。実施規則では、移行期間中、対象製品を輸入する事業者に対し、四半期ごとのCBAM報告書を各四半期末から1カ月以内にCBAM移行期登録簿(Transitional Registry)に提出することを義務付けている。詳細は2023年8月31日付地域・分析レポート参照。
- 執筆者紹介
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ジェトロ・ジャカルタ事務所
八木沼 洋文(やぎぬま ひろふみ) - 2014年、ジェトロ入構。海外事務所運営課、ジェトロ・北九州、企画部企画課を経て現職。