韓国政府、水素産業育成に取り組む
韓国の水素政策を振り返る(1)
2024年5月13日
カーボンニュートラルの実現に向けて、再生可能エネルギーとともに世界で注目されているのが水素エネルギーだ。これは韓国にも当てはまる。韓国政府は2010年代末以降、水素政策の策定・実行を本格化させている。大手企業各社も水素事業強化に向け動いている。韓国の水素関連産業は現在までのところ、本格的に立ち上がっているとはいいがたいが、今後は大きく成長することが見込まれている。
そこで、韓国政府の水素政策の経緯や主要企業の水素事業について、2回にわたり整理する。1回目の本稿では、文在寅(ムン・ジェイン)前政権と尹錫悦(ユン・ソンニョル)現政権の水素政策の変遷をみていく。2回目は、政府の水素政策に対する評価と、韓国の主要大企業の水素事業展開についてみていく(後編「大手企業が一斉に水素事業に注力」参照)。
なお、本文中の水素の種類の定義は次のとおり。
- 「グレー水素」:
- 製造時に大気中に二酸化炭素(CO2)を排出する水素。
- 「ブルー水素」:
- 製造時に排出した二酸化炭素を回収・貯蔵し、二酸化炭素の排出量を実質ゼロにした水素。
- 「グリーン水素」:
- 再生可能エネルギーで水を電気分解するなどで製造時に二酸化炭素を排出しない水素。
- 「クリーン水素」:
- 「ブルー水素」と「グリーン水素」の合計。
2010年代末以降、韓国政府は水素産業育成を本格化
韓国政府が初めて「水素」を政策課題として取り上げたのは今から20年以上前のことだ。政府は2003年、今後の経済成長を牽引する「10大次世代成長動力産業」の1つとして、燃料電池を含む「次世代電池」を選定した。また、2004年を「再生可能エネルギー元年」と宣言し、燃料電池・太陽光・風力の3分野の技術開発を積極的に進める方針を示した。しかし、その後しばらくの間、水素政策について目立った動きはみられなかった。韓国政府が水素関連産業の育成に本格的に取り組み始めたのは、文前政権時の「水素経済活性化ロードマップ」発表(2019年1月)や「水素経済育成および水素安全管理に関する法律」(以下、「水素法」)の制定(2020年2月)・施行(2021年2月)以降といえそうだ。
韓国政府が2019年以降に発表した水素政策などは表1のとおり。これらのうち、特にポイントとなる政策などについて、その概要を紹介する。
年月日 | 概要 |
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2019年 1月17日 |
「水素経済活性化ロードマップ」を発表
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2020年 2月4日 |
「水素経済の育成および水素の安全管理に関する法律」(水素法)制定
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2020年 7月1日 |
第1回水素経済委員会開催
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2020年 10月15日 |
第2回水素経済委員会開催
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2020年 10月28日 |
文在寅大統領、2021年度予算案施政演説で「2050年カーボンニュートラル目標」を宣言 |
2020年 12月7日 |
「2050カーボンニュートラル推進戦略」発表
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2021年 2月5日 |
「水素法」施行 |
2021年 3月2日 |
第3回水素経済委員会開催
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2021年 9月28日 |
水素経済委員会傘下に水素経済実務委員会が発足、初会合開催 |
2021年 10月7日 |
「水素経済の成果および水素先導国家ビジョン」を発表
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2021年 10月18日 |
「2030国家温室効果ガス削減目標(NDC)上方修正案」を発表
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2021年 11月26日 |
第4回水素経済委員会開催
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2022年 5月9日 |
文在寅大統領退任 |
2022年 5月10日 |
尹錫悦大統領就任 |
2022年 7月4日 |
「新政府のエネルギー政策方向」を発表
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2022年 11月9日 |
第5回水素経済委員会開催
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2023年 3月21日 |
「第1回 国家カーボンニュートラル・グリーン成長基本計画(政府案)」を発表
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2023年 5月9日 |
「水素安全管理ロードマップ2.0」を発表
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2023年 6月9日 |
世界初の水素発電入札市場開設を発表 |
2023年 9月22日 |
「国家戦略技術育成に関する特別法」施行
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2023年 12月18日 |
第6回水素経済委員会開催
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2024年 2月2日 |
「世界一等水素産業育成のための現場中心規制革新方案」を発表 |
2024年 2月14日 |
「新成長主要プロジェクト推進計画」を発表
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出所:韓国政府発表の各種資料などを基に作成
政府が「水素経済活性化ロードマップ」を策定
韓国政府は2019年1月、「水素経済活性化ロードマップ」を発表した。これは、2018年8月に発表された「革新成長戦略投資方向」の中で、「3大戦略投資分野」の1つとして「水素経済」が選定されたことに端を発する。2018年9月に官民による「水素経済推進委員会」(委員長:産業通商資源部長官)が発足し、「水素経済活性化ロードマップ」の検討が行われてきた。
「水素経済活性化ロードマップ」の概要は次のとおり。
韓国政府は、水素産業における韓国の強みは主に「燃料電池自動車」と「燃料電池」の2品目にあるとみた。そこで、これら2品目を軸に、水素経済を牽引するエコシステム構築のための工程表を提示した。ロードマップ作成に当たっては、日本やEUなどの政策を参考にした上で、競争条件・市場環境・技術発展などを検討した。その結果、「燃料電池自動車」「燃料電池」を中心にした「世界最高水準の水素経済リーダー国への躍進」を将来目標として設定した。その上で、「水素活用の拡大で世界市場シェア1位を達成」「グレー水素からグリーン水素への水素生産転換」「安定的で経済的な水素貯蔵・輸送体系の確立」「水素産業のエコシステム構築とライフサイクル全体での安全管理体系の確立」を目指す構想を明らかにした。具体的な定量目標は表2のとおりだった。
「水素経済活性化ロードマップ」の発表には多くの韓国メディアが注目した。当時の主要紙の社説をみると、全般的に好意的に受け止められていたようだ。例えば、「聯合ニュース」は社説に相当する「聯合時論」(2019年1月17日)で、「水素経済を戦略投資分野に選定し、ロードマップまで出したことは意義が大きい」「エネルギー源の大部分を輸入する韓国としては、自主生産可能な水素を新しいエネルギー源とすることで大きな輸入代替効果が期待できる」「自動車、半導体産業は海外の技術を模倣して素早くキャッチアップする『ファーストフォロワー』の分野だったが、水素経済分野は市場が初期段階で、やりようによっては世界市場を先導する『ファーストムーバー』になることも可能だ」と述べ、ロードマップへの期待を表明している。
「水素法」を世界で初めて制定
次いで、2020年2月、水素法が制定された。韓国政府は、同法の国会通過直後に発表したプレスリリースで、「米国、日本、EUなど主要先進国では水素経済育成のためのさまざまな政策を進めているが、水素経済履行のために水素法を制定した国は韓国が初めて」(産業通商資源部、2020年1月9日)と述べ、水素法の先進性を強調した。
水素法の骨格は、水素政策の推進(水素経済委員会の設置、水素経済履行基本計画の策定、水素特化産業団地の指定など)と、関連企業に対する支援政策だ。主要内容は表3のとおり。
水素法の意義について、韓国政府は「水電解設備などの低圧水素用品や水素燃料使用施設に対する安全確保のための法的根拠が整った」「国務総理(首相)を委員長とし、関係部署の長官を委員とする水素経済のコントロールタワー『水素経済委員会』発足の法的根拠が整った」「水素産業のインフラ構築のための法的根拠が整った」といった点を強調している(産業通商資源部、同日)。実際、後述するように、省庁横断的な委員会の水素経済委員会の発足・運営、水素関連の将来計画である水素経済履行基本計画の策定、水素関連企業への体系的な支援などは、水素法を根拠にはじめて動き出した。
また、2022年5月に革新系の文政権から保守系の尹政権への政権交代が行われたが、尹政権下でも水素経済委員会が引き続き開催されるなど、水素法によって政府の水素政策の連続性が担保されたかたちとなった点も水素法の意義といえよう。
分野 | 項目 |
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水素経済履行推進体制 |
水素経済履行基本計画の策定 水素経済委員会などの構成・運営 |
水素専門企業の育成・支援 |
水素専門企業の技術開発・事業化の支援 補助・融資、租税負担の減免 水素特化産業団地の指定 |
水素ステーションなどの設置促進 |
水素ステーション設置計画提出の要請 水素需給計画の策定 |
インフラ整備 |
人材育成、標準化、国際協力、技術開発などの促進 統計整備 |
担当機関の指定 | 水素産業振興、水素流通機関、水素安全に関する担当機関の指定 |
安全管理 | 事業許認可、安全管理者、製造施設検査、製品検査などに関する規定 |
出所:産業通商資源部「世界初の『水素経済育成および水素安全管理法』制定」(2020年1月9日)などを基に作成
水素経済履行基本計画で2050年までの目標値を提示
水素経済委員会は、国務総理(首相)を委員長とし、関係省庁の長官や産業界・学会・市民団体の専門家を委員とした委員会で、水素法に基づき発足した。同委員会は2020年7月以降6回開催されている(前掲表1参照)。
このうち、2021年11月に開催された第4回水素経済委員会では、「第1次水素経済履行基本計画」が発表された。これは水素法を根拠に作成されたもので、「水素経済の全ライフサイクルでエコシステムを構築し、クリーン水素経済を先導する」を目標として掲げた。目標達成のための4大戦略として「国内外でクリーン水素生産を主導」「強固なインフラを構築」「日常の全てで水素を活用」「エコシステム基盤を強化」を挙げた。水素生産・流通・利用に関する将来計画は表4のとおり。このうち、水素生産については、2050年に国内生産の100%をクリーン水素とし、海外から輸入する水素についても、韓国企業などが海外で生産するクリーン水素の導入を拡大するとした。
尹政権は文前政権の脱原発政策を転換、水素政策の基調は大きく変わらず
2022年3月9日の大統領選挙を受けて、同年5月10日に尹政権が発足し、政権は革新系から保守系に交代した。
政権交代によってさまざまな政策が変更されたものの、水素関連政策については、原子力政策を除き、基本的に文前政権の政策が受け継がれているとみることができよう。韓国にとって水素産業が重要、との認識で保革とも一致していたためだ。
尹政権は発足間もない2022年7月に「新政府のエネルギー政策方向」を発表したが、その中で文前政権のエネルギー政策について総括している。このうち、文前政権の水素経済については、「水素法制定(2020年2月)と水素経済履行基本計画策定(2021年11月)など、政策推進の基盤を整え、燃料電池自動車・燃料電池など、世界の水素市場をリードした」「2021年の燃料電池自動車生産は、韓国1万9,404台、米国1万2,188台、日本6,704台、同年の燃料電池生産は、韓国711メガワット、米国636メガワット、日本414メガワットだった」と述べ、その成果を評価している。
一方、原子力を巡っては、文前政権は「老朽原発の稼働延長を行わず、原発の新規建設を行わないかたちで原発の稼働を徐々に減らしていく」とする脱原発政策を取った。これに対して尹政権は、脱原発政策の下では「2050年カーボンニュートラル」の達成は難しいとし、原発依存度を高める方向にかじを切った。「新政府のエネルギー政策方向」では「実現可能で合理的なエネルギー・ミックスの再設定」という項目を設け、その筆頭に「(建設が白紙化されていた)新ハヌル原発3・4号機の建設再開、安全性確保を前提とした原発の運転などで、(2021年に27.4%だった)原子力発電比率を2030年に30%以上に引き上げる」と明記した(注)。原子力政策の見直しは、原子力発電による電力を基に製造される水素の普及可能性が高まるなど、水素の生産・需要に一定の影響を及ぼそう。
さらに、「新政府のエネルギー政策方向」は、尹政権の水素政策の柱として「クリーン水素のサプライチェーン確保」「世界最強の水素産業の育成」を挙げている。サプライチェーン強靭(きょうじん)化や産業の国際競争力向上を目指す尹政権の姿勢が水素政策でも貫かれている。
尹政権の水素政策を発表、水素需要の創出と技術力強化に力点
尹政権になって初めて具体的な水素政策が発表されたのは、2022年11月の第5回水素経済委員会の場だった。委員会では「クリーン水素エコシステム造成方案」「世界一等水素産業育成戦略」「水素技術未来戦略」の3つの政策が一気に発表された(表5参照)。総じていうと、大規模な国内水素需要の創出や、水素分野の技術力強化を中心に、水素産業を積極的に育成していく決意を示したといえる。ちなみに、大手日刊紙「中央日報」が発行する「中央サンデー」(2023年1月21日、電子版)は、「昨年11月9日、韓悳洙(ハン・ドクス)首相主催の第5回水素経済委員会が開かれた。前政権とのエネルギー政策との差別化が注目されていただけに、新政権の発足後に水素経済委員会が続けられたこと自体が耳目を集めた。(中略)新政権は意欲を示すべく、『クリーン水素サプライチェーン構築と世界一等水素産業育成』という国政課題を明らかにした」とする専門家の見解を紹介している。
その後も、2023年12月開催の第6回水素経済委員会で「水素産業素材部品装備育成戦略」「燃料電池自動車普及拡大策」が発表されるなど、現在までに新たな水素政策が発表されているが、これらは第5回水素経済委員会で発表された3つの政策の延長線上にある。
表5:第5回水素経済委員会で韓国政府が発表した3政策の概要
項目 | 骨子 |
---|---|
ビジョン | 水素エコシステム高度化のためのクリーン水素先導国家へ跳躍 |
推進戦略 |
利用:大規模水素需要の創出
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流通:水素流通インフラの構築 | |
生産:国内外におけるクリーン水素サプライチェーンの構築 | |
制度:水素市場の制度的基盤の整備 |
項目 | 骨子 |
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ビジョン |
水素産業グローバル先導国家へ跳躍
|
推進戦略 | 先進国水準のコア技術の確保 |
水素産業のエコシステム造成 | |
民間投資促進のための規制緩和 | |
海外進出有望分野の輸出産業化 |
項目 | 骨子 |
---|---|
ビジョン | 超格差技術確保で2050年の世界の水素市場を先導 |
推進戦略 |
クリーン水素生産技術の国産化
|
水素供給のための輸送・貯蔵技術の高度化
|
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水素利用技術トップ固め
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注:「7大戦略分野」は、水電解、液化水素輸送船、トレーラー、水素ステーション、燃料電池(モビリティ)、同(発電)、水素タービンを指す。
出所:韓国政府関係部署協同「クリーン水素エコシステム造成方案」「世界一等水素産業育成戦略」「水素技術未来戦略」(いずれも2022年11月9日)を基に作成
- 注:
-
ちなみに、産業通商資源部が2023年1月に発表した「第10次電力需給基本計画(2022~2036)」によると、発電量の電源別構成比の見通しは次のとおり。
- 2030年:
- 原子力32.4%、LNG22.9%、再生可能エネルギー21.6%、石炭19.7%、水素・アンモニア2.1%、その他1.3%。
- 2036年:
- 原子力34.6%、再生可能エネルギー30.6%、石炭14.4%、LNG9.3%、水素・アンモニア7.1%、その他4.0%。
韓国の水素政策を振り返る
- 韓国政府、水素産業育成に取り組む
- 大手企業が一斉に水素事業に注力

- 執筆者紹介
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ジェトロ調査部中国北アジア課
百本 和弘(もももと かずひろ) - ジェトロ・ソウル事務所次長、海外調査部主査などを経て、2023年3月末に定年退職、4月から非常勤嘱託員として、韓国経済・通商政策・企業動向などをウォッチ。